« 彫刻 | メイン | 日常 »

2010年02月05日

●これから本番、卒業生

早起きして上野へ。お〜!懐かしき東京芸術大学。受験稼業と大学とは関係が強いとは言え、こうして母校の芸大に来るのもこの時期の卒業制作展くらい。懐かしさはあっても当然のごとくあまり用事はない。

それにしても「上野はやっぱりいいなぁ〜・・・!」と、9年間も通った道の記憶を辿りながら清々し冬の空気を吸い込む。 
ゆったり時間があるのでまずは大学のアトリエと大学美術館で展示の修了展示へ。
職業柄、懐かしい学生達に遭遇し話し込む。こんな時ばかりは「けっこう友達多いじゃない?!!」なんてまんざらでもなく単純に嬉しい。

今は大分慣れたのだが「あの学生がこんなになっちゃったの!」と本当に驚く。
考えて見れば自分も通って来た道だし当たり前なのだが、不思議に思えてしまうのだ。そして大概はそれぞれ作品制作のための技術や手法も私以上に身につけていて、あらためて驚くやらビビるやら嬉しいやら。

それでもそれはそれ、ひとつひとつの作品の自己評価を加えながら鑑賞していく。目はまるで芸能スカウトのように、そして若きエネルギーを吸い込もうとする吸血鬼のように。

老い行く作家はそれなりに必死なのだ。

卒業生諸君!闘いはこれからなのだよ!同じ境遇での作家活動。100年越しの恋のように最後まで諦めずに頑張っていきましょうね。

ikesima.jpg
大学院修了で美術館にて展示の松下さん、そして講習会でも講師として手伝っていただいている池島君。超美技のその作品。見事です。

kinenn.jpg
これもどばた出身の松岡君の作品の前で勝手に記念撮影。ほとんど、いやかなり変態に近いこの構成とイメージに心は『万歳!』というか脱帽で。こんな発想と価値観、僕にはありません・・。

2010年01月20日

●軽やかに舞う

センター試験も終わり、皆、一山超えたような顔。うまくなんとか乗り切れた様子である。
すかさず「コンクール」で、なんとも休む間も無い。ここが踏ん張り所なのだし、この日の為に準備して来たのだから、もう迷わずに突き進むだけ。一方で、我々指導陣にとっては逆に静かな時間となる。念力やテレパシーで応援はできてもあとは学生まかせなのだから、こちらもこれから一緒に闘う為の養分注入期間となる。
というわけで、私も注入すべく、東京都現代美術館の「レベッカ・ホルン展ー静かな叛乱 鴉と鯨の対話」、そして鎌倉にある神奈川県立近代美術館「内藤礼 すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」へ行って来た。年代的には差があるが、ドイツ、日本を代表するどちらも女性作家である。

ご承知のように、近年の彫刻を目指す女性の増加は驚くばかり。昨年度の芸大合格者の半数は女性だったし、広島に至っては昨年度の入学者は全員女性だとも聞いている。
 男性の中性化は別としても、彫刻という領域での女性作家の活躍は、多くの視点や可能性へと開かれる光に満ちている。

いざ、これから始まる受験という闘いも、毎年のことながら一歩も二歩も女性リードといった感がある。大きく空を抱えながら、軽やかにそれぞれの春に向けて走り出してほしい。

   
201001191149001.jpg
内藤礼の風で空に舞うリボンによる作品。タイトル「精霊」(見えるかな・・・)

2009年10月06日

●今井 大介 ー群盲が巨象を撫でるー

秋山画廊、「今井 大介」個展へ行って来た。台風前の何やら怪しい雨まじりの中。前回紹介したどばた彫刻出身の戸谷君等と共同アトリエだという。類は類を呼ぶというが、彼等のメンバーは作品を知る限り良いライバルに感じる。作品への思考やそれぞれの独自性も含めて興味深い。不思議なのは彼は多摩美出身なのだが、私の中にある多摩美生に感じる匂いというか特徴が彼の中にはない。本人には会えなかったがビール2缶で長居してしまった。今井君を含め教え子達が多くの実践を重ねて行く。追われる身に迫るパワーとでも言うか、チャレンジに満ちた秀逸な作品は矢張り逆噴射のように力湧く。
 ちょっと飲み過ぎもしたが・・・・。
imai.jpg

2009年09月02日

●アートな旅

2学期もいよいよ始まり。講師にとっても学生にとっても束の間の休息を終えて、いざ!後半戦へと突入となります。今年の夏を振り返れば、洪水による災害、猛威のインフルエンザなどの自然がからむ現象、一方で民主党圧勝の衆議院選挙(浪人生の半数は選挙権ありの学生も)、芸能人の麻薬事件などの社会的事件、どちらにしてもそれほど明るい話題は見つかりませんが、やはり自然も社会もなんだか荒れてる、そんな気がしますね。
 さて、こんな夏を最後に半日を費やしいくつかの展覧会へ行ってきました。
その中で東京オペラシティーでの鴻池朋子展「インタートラベラー/神話と遊ぶ人」と埼玉近代美術館での長澤英俊展「オーロラの向かう所」の展覧会は対照的ながらも共通項があり興味深いものでした。
キーポイントは「旅」。鴻池朋子は「想像力という人間の根源的な力で地球の中心まで旅をする」という神話を創り上げる。一方の御歳68才の長澤英俊氏はイタリア在住の国際的彫刻家ですが、こちらは大学を卒業し自転車一台でアジアからイタリアへの旅という壮絶な体験の果てに行き着いた地から始まる物語。
 鴻池の作品で彼女「企画」の循環するツアーの旅に参加し子供のように無邪気に遊び、長澤氏の作品では作家の旅が産み出した記憶をひも解きながら、見えないけれどそこに確かにある存在へと自らが旅を試みる。エンターテイメント性とドキュメント性。人間、どちらも必要な要素ですが、心地良く人が漕ぐ舟に乗っているとだんだん自分で荒海に漕ぎ出したくなっちゃいますね。
nagasawa-top.jpg
exh.jpg

2009年06月04日

●蘇る

日本の住宅事情で、家屋の再利用率はイギリスが80%以上で日本は12%程度と聞いて驚いた。勿論、欧米の石造文化との比較とは比べようもないのだが、日本という国は、作っては壊し作っては壊しを永遠と繰り返しているのだと思うと暗澹となる。
 一方で新潟で行われている大地の芸術祭など、こうした再生へのプロジェクトが中心的企画となっていることは光明である。また近年、地域活性化のための手法としてアートを取り入れる試みも多くなって、使われなくなった商店街や古い建造物などの再利用も含め、アートが人を繋ぐ媒体ともなっている。こうした様々な展開は生きたアートとしても定着もしてきた。垣根をこえたアートのありかたがいよいよ重要度を増して来たようである。

*商店街の古い旅館での学生によるインスタレーション
P7190136.jpg

2009年02月02日

●作家の朝3

久しぶりの再会であった。銀座のギャラリーの個展会場で作家の館山拓人君に会った。学者、医学者、エリートサラリーマン、う〜ん、それから・・、そう、つまりはとても知的であり生真面目でありにこやかであり、いわゆる負のイメージがない。誰に聞いてもその印象はそれほどづれてはいない。
彼には以前、すいどーばたで講師をしていただいたことがある。やはりとても熱心(額の汗は特徴的である)で分析的でいわゆる野蛮性というものが無い。こういう人間性は私とは真逆で、私がこうなりたいと思える要素を沢山持っていて、会うと何か気持ちが救われる人種である。別れた後の空気感も実にいいのだ。彼の身に不幸など有り得ないと思えてしまうのは私だけではないだろう。
tateyama1.jpg

 それはそうと作品である。まずはその木彫の大きさと労力に感心した。近頃の木彫作家の作品は違わずに、彫ることで観る側を圧倒させるという基本ラインがある。話しはそれを超えて始まる。
作品イメージは千手観音から受けたという。数体の胴体が集まりねじれながら集険し個性を備えた多数の手となって炸裂していく。金箔という華やかさもあってか、熟考する精神や沈殿する記憶といった寡黙な領域とは別の、エネルギーに満ちて虚空へと発信される無機質な命にも見える。手の持つ百の様相と単純化された顔のイメージのギャップがさらにそれを煽る。
この知的、科学者のような作者が無数に開かれた手の先に何を見ようとするのかは想像するしかないが、存分に怖さや不気味さも備えていて、やはり、どうも、きっと実は怪しい人間なのである。なぜなら、真っ正直でまっすぐな人の道のささやかなズレはそれ以上に際どさを放つ。見た目の人間性と作品が同列でイコールなんて、そう簡単にはならないのだから。

少し、怪しい写真に仕上げてしまいました・・。
tateyama4.jpg

2008年12月15日

●RE:展

今年で三回目となる彫刻科講師展が始まった。
この展覧会のきっかけは、「すいどーばた」という教育の場を共有する私たちが、講師と学生、そして彫刻(家)という関係の特徴を織り込みながら、何かメッセージを発することができないか、との思いからであった。ただ下地には、偶然とは言え、世代を超えて集まった講師の作家としての共用性、そしてともすれば単調ともなりかねない受験へのカンフル剤ともなればとの思いもあったのだが、実際には言葉で指導する講師にとって、作品は将に自己の生身を曝すことであり、グループ展とは言え、そうそう半端にはできるものではない。「少しは俺らの力を学生に見せてやろーじゃないか!」ぐらいの鼻息の荒さも少なからず必要なのである。

 話し合いの上決定した「RE:」とは。
若き学生達と同様に、私たちにも確かに存在した、自らを彫刻の道へと導いたなにものかの体験や記憶、そして出会いとしてのオマージュへと追想、回帰してみることで、それぞれの原点や制作の根源をあらためて見つめ直してみる。これをコンセプトして隔年毎に違うテーマを設けながらの実験的展示を行っていく、というものとした。
 そして今年度のテーマは「現場」。
以下が展覧会のメッセージである。さてさて、いかなる結果となることやら。

RE:2008
-彫刻家の現場-
7人の場合
 彫刻家が彫刻を産み出す現場。それは素材が形へと変容を遂げ、彫刻として成立していく瞬間をも意味する。同時に空間としての環境、時代としての背景とも関係しながら、彫刻家は将にその現場で自らの手法を持って彫刻の生成の為に格闘するのです。

 今回の「RE:2008」では、各作家の作品と同時に、作家が織り成す様々な現場との関係をも紹介しながら、作家の生きる「形」に迫ろうとするものです。

RE.jpg


2008年11月05日

●上野蜃気楼

世に言われし「芸術の秋」である。色とりどりの紅葉が眩しい程、寒い冬を前にした最後の徒花のようにきらびやかである。想像してみてほしい。作家にとっても、この時期に作品を発表するということは、実はあの暑い夏を少しは避けて制作できるということであって、本番への追い込みもそれなりにスムーズにいくのである。やはり秋は作家にも鑑賞者にとっても相思相愛の季節なのだ。
というわけで、私にも連日、展覧会の案内が届く。都心から離れ山里に暮らす私にとっては簡単においそれとは行けないのだが、意を決して東京周遊とばかりに一日を展示会巡りに費やすことがある。天気も良ければ気持ちは行楽気分、背中にリュックで焦らずゆっくり。巡る順番をメモ書きし、おまけにお昼のメニューまで想像してみるのである(とは言っても意外と立ち食いでかっこんで終わるのだが・・・)。
先日も、治りかけた腰の痛みを確かめるように出かけた。荻窪、新橋、銀座、京橋、自由が丘、そして上野、谷中と盛り沢山。友人作家、後輩、教え子と、いつもなら「次があるので・・」と詫びながら急ぐこともなく、会場でゆっくりと話せるのもこうした「一日巡り」の良さでもある。近頃は立派なカタログも多く、「巡り」が順を追うに連れ、バックは重さを増して行く。その重量は私を新たな制作へ導くエネルギーともなれば,逆に私がもう追いつく事のない時代を突きつけられているようでもあって、いわば過ぎたる者(作家)の郷愁をたぎらせるものともなる。
 懐かしい上野の森を久しぶりに歩きながら、こちらも変わってしまった風景に新鮮さと複雑さを交差させながら佇む。
 想いをかき立てるように突然噴水が勢いよく空に噴き出す。また消える。まるで蜃気楼にも似たケーキのような白い輝きが消滅を繰り返す。そんなリズムの光景を私は、ぼんやりぼんやり眺めては、「もう少し頑張ってみるかぁ」と呟くのでした。

funsui.jpg

2008年10月15日

●ブラジル

「ジャパンブラジルクリエイティブアートセッション2008」という展覧会が行われた。
今年は1908年にブラジルへ向けた第1回日本人集団移住者を乗せた移民船「笠戸丸」が、2ヶ月におよぶ航海を経て、ブラジルのサントス港に入港してから今年で100年目にあたるという。この節目を祝おうと、今年はさまざまな行事や関連イベントが計画された。その中でこの展覧会は将に交流という意味で突出したものだった。主催者は両国のアーティスト。10年以上の長期に渡りアーティスト同士が深く交流し、そうした中から自らの視点で今のブラジルアートを紹介する、手作りの展覧会だ。規模、内容から言ってもよくここまでできたものだと感心する。通常の交流展と言われる展覧会の多くが、突発的で間接的情報で人選等が行われる事を考えれば、これは理想的な方法と言えるだろう。また昨今の若い美術家達が人が仕立てた俎上でのみで蠢くのとは対照的に、彼等は自分の足元を自ら作り上げる、そんな気概に満ちている。お互いが検証し合い、甘える事無く、価値観の相違を超えて成立させていくそのプロセスそのものが、作家にはひどく重要なものなのだと、ささやかながら彼らの人間味を帯びた雄叫び聞こえるようである。

burajiru.jpg