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2009年04月11日

●初会

すいどーばた美術学院恒例の新学期初日の儀式となる「初会」が行われた。全ての講師、教務の顔合わせと紹介を兼ねたこの儀式も、昨今の厳しい世の中の状況にあって若干明るさのトーンは落ちたものの、個人的には、自分がこうした生きた組織の中にいる事をあらためて確認する良いチャンスともなっている。こうした現場で働くあらゆるジャンルの作家の集団はそれはそれで壮観でもあって興味深い。儀式に付きものの堅い「ご挨拶」もご愛嬌で、若手講師達の生き生きとした顔と姿こそ気持ちいい。
 
実はそれぞれもっと一人一人知り合いになりたいのだが、何ともシャイな私の性格が邪魔をしているようだでもある。
自己の価値観をしっかり持ち得た人の横の連携は、より多くの力を発揮するとのこと。これ東洋哲学の基本だという。ならば、この困難な時代、多くの交流で知恵を出し合って参りましょう、よ、と、ひとまず心の応援歌。

hajimekai.jpgひとりひとり紹介(黄色は教務トレードカラージャンパー)

2009年01月24日

●菌の運動会

風邪をひいた・・・。この私がである。つまり実はもう何年も風邪というものに縁がなく、学生に対しても「風邪をひく学生は校則違反だ!!」とうそぶいていたのだ。
ところがだ・・何か慣れない喉の痛みを感じると、その痛みはみるみる間に脳みそへ熱となって超特急で登って行った。普段は無理をしてでも雄々しく構える私も、ひとたび病(やまい)に冒されるとまるでだらしがない。熱を押して「這いつくばっても、気力でカバ〜だ!」なんて体育会系の根性はまるで沸き起こらず、ひたすら喘いでは床に伏すのである。早めの対応と病院へも行き薬も頂き対応万全と思いきや、熱はさらに上がるは鼻は詰まるは湿疹は出るは、まるで風邪菌の大運動会である。果ては家族内部での「隔離政策」も有無を言わさず即時決定され、ドア越しの梅干し入りお粥差し入れで栄養補給を施し、風邪菌の鎮まるのを闇夜の中で手を合わせひたすら待つのであった。
 さてさて皆様方、風邪は万病も元、くれぐれもご用心下さい。
 対応は早めに、復活を焦らずに。
 身体からのサインには敏感に。
 受験生の必須事項ですよ。

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2009年01月09日

●初雪草

初雪。未明から降り続いていたのだろうか、朝の風景を一変させていた。雪の朝はカーテン越しにもその「異変」を感じる。曇っているにも関わらず僅かな光をも反射して明るい。そして太陽が高度を上げるにつれて一気に溶け始める。アトリエから俯瞰する渓谷の底からは、斜面を伝って濛々と狼煙(のろし)のように水蒸気が上昇し空へと消えて行く。その様はまるで地球の歓喜ようで見入る私の魂を揺さぶる。雪に隠れていた雑草や畑の作物も、雪の「温泉」にでも浸かったように以前よりも生き生きと輝き顔を出す。
初雪草(ハツユキソウ)という植物がある。 原産は北アメリカ。葉に白い斑(ふ)が入っていて、まるで雪化粧をしたように見えるためそう呼ばれるのだが、実はこの植物、初霜にも初雪にも、勿論、寒さにも弱い。雪にしてみれば今日降ろうが明日降ろうが変わりは無いのだが、実はその雪によって際立つ何かの存在を意味しているのだろう。
 雪に触れてその冷たさを感じてみる。大地の熱を孕み、空からの極寒たる雪を友として生きるこの雑草に、手前勝手に「初雪草」と名付けてみるのである。
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2008年12月05日

●光の通路

すいどーばたは目白駅と池袋駅のちょうど間に位置する。目白から進む最もポピュラーな道は、駅前の目白通りを道沿いに数分歩いて直角に折れ、いわゆる高級住宅と一般的に呼ばれる住宅街を行くだけで着く道のりである。この道に飽きるともっと細い路地を「ジグザグ」を繰り返しながら到達する方法に切り替える。しっかり手入れされた庭を持つ住宅が続き、植物や庭の好きな私には飽く事の無い光景が続く。低層の家並みは裏道に回れば回る程庶民的で、玄関先のささやかな庭作りを観察するだけでも、そこそこに季節の変化さえ感じられて嬉しい。実は『池袋ウエストゲートパーク』で名を馳せる石田衣良の小説の中にも、この裏道にある「目白庭園」あたりが舞台として設定されているくだりもあって、ちょっとした観光気分にもなれるのである。
 一方、池袋からの道ともなると、駅前周辺の高層ビル群を背中にやや複雑な道を歩くこととなる。特徴はその高層から一気に低層に入るその風景の変容だろうか。池袋駅まで5分の住宅地ともなればかなりの利便性も高く、住宅地はまるでしのぎを削るような密集度となる。こうした場所にはおよそ信じられない「路」が存在する。これが面白い。人がやっと一人通れる程の空間が200m程続く。人の庭先、軒先をかすめるように通る。こうした路がどんなふうにできたのか、想像力を刺激する。普通ならこの路を歩く必要性も意味も無いのだが、この路を一人通り過ぎた瞬間、何やら懐かしい秘密の路を抜けたような開放感に浸るのである。 
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2008年11月24日

●獅子奮迅

先だって合同公開コンクールが行われた。湘南美術学院との合同コンクールも今年で早いもので5回目を迎える。およそ予備校が手を組んで行うというのも有り得ないのだが、事は真剣である。少子化に伴う学生数、受験者数の激減。それは裏を返せば美術人口の減少であり、競争意識を欠いたレベルの低下へも繋がる。とは言っても「競争」そのものが重要なのではなく、こうしたボーダーレスの時代だからこそ、予備校と言えども多くの交流の場への貢献が必要なのである。逆に言えば、受験や美術教育そのものを再考するチャンスなのだ。
「個」による美術も多様性の中からその「個」を確立していくのだし、開放された場こそ社会へと繋がる。空気は澱むより通った方がいい。質は接触し熱を帯び、さらなるエネルギーになればいい。ここにいる若き学生が確かに日本の未来を創り出すのだから。
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2008年11月06日

●暗鳥乱舞

学校の仕事で、近隣の美術系高校などへ出向いて受験相談や実技指導を行う「校外講習会」というのがある。10月から11月にかけてはそのピークであちらこちらに「旅」をする。近郊の場合は日帰り出張となるのだが、私のように学校まで2時間以上となると時にはかなり強行な日程となる。場合によっては往復10時間、指導2時間ということさえある。帰宅時の足はもう硬直した棒に近いものがある。先日行った某美術系高校の講習時も、やはりかなりの疲労の中の帰宅路となってしまったのだが、講習を終えてタクシーで向かった駅である異常な光景を目にした。
 巨大化した駅の、それも眩しい程の照明の上空を恐ろしい数の鳥が舞っていたのだ。その塊はおよそ考えられない程の素早さで急旋回を繰り返す。太陽を天に飛ぶのではなく、地上の明かりを天にし、黒々とした集団が墜落するかのような狂気を秘めて舞っているのである。
天と地が逆転したかのような集団の舞いは、それはそれは不気味で、地上を行き交う人の群れと層を成しながら錯綜しているようでもあったが、誰一人として空を見上げる人はいなかった。その光景こそが二重に恐ろしくもあった。
しかし、よく鳥は空中衝突しないものである・・・・。すごい・・・。
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2008年08月23日

●夏の香り

長い夏の講習会が今日終わろうとしている。昼コースの最終日は恒例のそれぞれの成果を問うコンクール。学生達は採点の間、緊張の面持ちで結果を見守っていた。一方でこの緊張感を根こそぎひっくり返す程の強烈な臭いが館内、アトリエに漂っている。こちらも夏恒例の夜間塑造課題の最終モチーフである羊、ヤギの「生」な臭いだ。
まぁ、言ってしまえば糞尿の臭い。コロコロの納豆仕立ての糞のかわいらしさに比べて際立つ臭いは液体の方。放たれ広がり蒸発していくエネルギーと共に発散し湯気立つ程の臭い。臭いは存在の強度そのものだ。と表現してみたところで、つまりは凄く強烈に臭いのだ。吹き抜けになった本館の中央はもう彼等の棲み家となっている。犬のマーキングとかそんな生優しいものじゃない。その中央から放たれた彼等のエキスは、絶え絶えになるまで頑張り通した学生に「運(うん)」と「命」の存在を最後の最後に彼らの神経を逆撫でるように与えて行ったのです。きっときっといつか必ず糞尿の香りと共にすいどーばたを思い出すことでしょう。
しかし、ご存知ですか?この臭い、その中にしばらくいるともう同化してしまうのです。
私だって動物なんですから。
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2008年08月16日

●熱い氷

真夏日が続く続くまだ続く。そしてそう、予備校にお盆も正月も無いこの現実。特に夏は忙しい。それに全ての夏休みを講習会に捧げる熱き若者と時を過ごすのだから半端じゃない。彼らにとっては一夏でも私には何十年と続いて来た夏でもある。この時期、利きすぎる程の冷房にゾッとしながらガラガラの通勤電車に乗るのも気楽でいのだが、何かギャップがある。やはり夏はあの鬱陶しい程の満員電車がいいのだ。夏は熱くて賑やかで雑踏に満ちたカオスがいいのだ。疲れ果てて汗だくになって飲むビールがいいのだ。夏を涼しく乗り切ろうなんて・・・甘い。
真っ赤な燃えるような「氷」の文字に「涼しさ」を感じながら、氷さえも熱く燃える夏を思い気合いを入れ直すのである。講習会諸君!もう少しがんばりましょう!!
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2008年05月31日

●微力と無力

うごめく都市。解体と再生。崩壊と生成。昨日の景色は明日に保証されない。人為、自然。
 地球温暖化は待った無し。およそ100年後には白神山地のブナ林は消滅するという。北極熊は氷河が解け餌を獲れず餓死。日々の報道は人間の飽くなき欲望が作り出すカタストロフィーに満ちた情報で溢れかえる。がんじがらめになった閉塞感。もがきながらも生きる。
 ミャンマーのサイクロン、中国四川大地震。想像を絶する死者、被害者。
一分間息を止める。1分間雨の中に立ち尽くす。たったそれほどの時間でさえ感じる苦しさと体感。微力と無力。微力でもできること。無力にならないこと。無関心でいないこと。諦めないこと。知恵を出す事。結論はいつもとてもシンプルだ。
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2008年05月13日

●絶壁太朗

山間部の道路、ここにも驚くべき光景がある。がけ崩れ防止の絶壁。合理的目的を持った構造物は時にその目的をはるかに超えた様相を呈する。ここまで来ればもう「お見事!」と言いたくもなる。「安全」「便利」は何よりもこうした工事では優先であり特権なのだろう。デザイン性や美的風景、あるいは借景といった日本的美意識などまるで意味を成さず、合理的にその目的を達成するのみにひたすら走る。この国は何かこうした合理的目的とそれに見合うお金があればきっと富士山だって平にしてみせるのだろうとさえ思ってしまう。
 くねくねと波打つ壁面。蜂の巣にも似たコンクリート風景から飛び出す生き物の空想。あるいはどうだろう?観光地の麗しき「滝」の説明のように、こうした構造物にも名前をつけてみるとか?
「右手に見えますのは〜、『絶壁太朗』君の堂々たるお姿ですぅ〜♪』
なんてそんな事を想像しながら、片手運転カメラ撮影と器用にこなして、安全と便利さをしっかり享受する私でした。

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2008年04月24日

●あひるの洗濯

「たまにはお寿司がたべた〜い!!」とせがむ子供にも似て、無味乾燥な石膏デッサンで萎えていく感覚を復活させるべく、動物モチーフの投入となる。いわば子供の健康を心配する母親が栄養を気遣い、子供はマンネリ化した食事に我がままを言う。まぁ、講師と学生のそんな関係とも似て。
通年、様々な動物、生き物が学生のモチーフとなる。が、都心でこうした動物を確保するのはそれほど簡単ではない。そして驚くなかれ、人間以上のレンタル料金にもびっくりする。鶏さえ4、5日も借りれば10万単位でレンタル料金が飛んでいく。犬ともなると一日いるだけで5万以上という超スーパーモデル並みの料金になる。う〜ん・・我が家の愛犬は今頃たらふく喰らってお昼ねかと思うと、思わず「働かせてみるか・・」と良からぬ計算が働くのも至極当然である。
一方で都心で飼われるいる動物はある意味悲惨だ。散歩もままならず躯体が奇形、変形化したり、およそらしからぬ肥満化したウサギなどざらである。
という訳で、いつぞやのアヒル。あの純白の羽毛は黄ばみ自らの糞尿にまみれて茶色に変色。ならばと思いついて簡易運動場ならぬプールを作って放り込む。嬉々としてガァ〜!ガァ〜!と雄叫びをあげながらガチャガチャ水を齧り羽を生らす。みるみる間に羽はまるで漂白液に漬けたかのように白に輝いていく。長方形の水場を集団で右往左往しながらのダンスである。
 うん、今日はいい事をした。
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2008年02月14日

●志賀ガーデン/その2「楽園」

という訳で「志賀ガーデン/SHIGA GARDEN」である。
すいどーばたで消耗されていくモチーフの行方は様々。その多くは1日?3日間で課題終了となるモチーフのため、役割を終えた「生もの」は当然処分となる。金魚や亀は「里親募集」に始まり学生の微かな愛を頼りに消えて行く(その後の生死は解らない)。さすがに生魚や干物、海老や貝など高級であろうとなかろうと大概は廃棄処分となる。アートの為とは言え何とも勿体無い・・・。そして果物、野菜は「自由お持ち帰り」と張り紙され瞬時に消える。これはいとも呆気なく消える。そして数々の美しい切り花はその役割を終え学生の部屋を飾る場合もある。問題は鉢物の花である。持って帰るには重い。花を終えた植物に興味は薄れる。管理に時間や労力を割けない、というハンデの中で何となく消えて行く。その鉢物の花、植物モチーフがいつの頃か一カ所に集まるようになった、隣接するビルとを仕分けるフェンスの僅かな隙間の空間に繁殖していくように。それは徐々に増え続け、手作りの棚も作られ種類も増えて増殖していく。ベンチが置かれた休憩場所でもあることから、ささやかな植物園ともなり花が咲く。観葉植物は緑の葉を広げ伸びて行く。無味乾燥だった空間は一服の清涼剤のような空間に変容していった。その植物園のオーナーはデザイン科の教務の志賀君。水やり、剪定、棚作りとガーデンオーナーはとても楽しそうだ。不思議な事に植物の成長には愛が必要だ。毎日我が子を気遣うように観察し対応しないとすぐに枯れてしまう。
霜さえ降りる寒い冬。足早に通り過ぎる予備校生。そして世話を終えて一服するにこやかな志賀君のコントラスト。
そう今日も何か穏やかな景色がいい。
世界遺産ならぬ「どばた遺産」。
感謝、感謝の癒しの光景である。

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2008年02月13日

●志賀ガーデン/その1「モンスター」

 美術予備校はまるで食欲旺盛な巨大な怪獣のようでもある。学生というお腹を空かしたヒナ鳥は貪欲に何でも飲み込んでしまう。
 知っての通り学生はそれぞれの描写能力を伸ばす必要上、様々なモチーフにチャレンジする。その為に「保存モチーフ」という、石膏像を中心としたおよそ千点にも及ぶ(数えたことはないのだが・・)だろう静物モチーフが倉庫棚に整然と並べられ、カリキュラムのモチーフとして日々続々と投入されていく。
 また人物デッサンの為の男女モデルの数々、加えて鳩、鶏、アヒル、果てはヤギや犬、七面鳥までもがターゲットとなり、時には阿鼻叫喚の動物達の悲しき雄叫びさえこだまするのである。
 もうこれだけでも雑貨屋、モデル事務所、動物園と、まぁ何とも多種多様であり、異種なものの組み合わせが生み出すドンパチが美学の基本よ!とでも言うかのように何の脈絡もないままに登場しては去って行く。
 一方で「消耗モチーフ」と呼ばれるものがある。その言葉通り、維持、保管に耐えられない物、つまりは「生もの」の類いである。花(鉢、切り花、サボテン)、魚(干物、生魚)貝、果物、野菜等、種類も季節も国籍も問わず投入される。こればかりか金魚、ザリガニ、エビなど、「食える、食えない」生き物も生け贄?となる。受験シーズン本番となったこの時期はさらにモンスターは巨大化していく。
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2007年05月25日

●学習環境 ?使いこなしてこそ環境!?

すいどーばた彫刻科には、長年の伝統の中で蓄積されてきた沢山の研究素材があります。そんな環境の一部を紹介しましょう。
●参考作品(デッサン/塑造写真)
 まずは過去半世紀、50年間ここで学んだ学生達が残していったデッサン、塑造の優秀作品の数々。東京芸大を含む各美術大学で指導にあたっている先生方、あるいは日本のアートを牽引する作家達の若き時代のデッサン。その時代を反映するその表現内容もとても興味深いものがあります。
石膏、人体、静物、自画像、動物デッサン他ジャンル別に区分けされたデッサンの参考作品、そして写真プリントされた塑造作品の数々。常時閲覧可能なこうした参考作品は、時には思い悩む学生を勇気づけたり、また表現としての行き詰まりを打開するための貴重な参考書ともなり得ています。
そして何よりも同時代に果敢にチャレンジした当時の学生の息吹そのものを感じられること、それが最も大きな財産のようにも思えます。
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●参考図書
彫刻に関わる図書、その数およそ700冊。
閲覧自由。
美術そのもを知ること、興味を持つことは自分の世界観をさらに広げてくれます。歴史、思考、表現の多様性に触れ研究する積極性そのものがエネルギーであり、クリエイティブな自分を引き出す大切な要素です。
 今となっては絶版となってしまった本、美術本そのものが高価である現実を考えても貴重な財産です。そして毎年、新規購入の本も含め充実を計っています。
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● 標本/立体モチーフ/立体作品
人体や動物彫刻学習に不可欠な標本、様々なジャンルの立体モチーフ、そして過去の学生の優秀作品を石膏取りして残したものなど

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