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2009年10月08日

●ボクサー

古い話しだが、私が受験生の時、予備校の恩師から塑造制作でのアドバイスを受けた。それは「彫刻家にとってフットワークがとても大事だから足周りを片付けなさい。」いうことだった。3次元を扱う彫刻は360°の世界であり、かといって目前のモチーフや自作を空中に浮かんで確認することはできないが、上下左右からの確認や観察、そして客観的比較の為に常にモチーフや自作から距離を置いてみることが重要となる。それはまるでボクサーのようなフットワークにも似てアクティブだ。常に集中し、動き、観察し、ジャブを繰り出し気力と体力をもって立ち向かう。ボクサーの栄光は相手を倒すことだが、彫刻家の栄光は?
繰り出したジャブとストレートは徐々に明快な形を伴って光輝き出す。
ボクシング経験の私であるが、実は公式試合3戦3敗・・。そして現在、我彫刻世界の全敗を歩み続けているようにも感じる。まだまだフットワークが本気で足りないようである。
少しスパーリングで鍛えるか?!

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2009年04月17日

●空洞

身体の中にある胃や腸の器官もその実は表面。口の中に放り込む食べ物は器官の表面を辿り落ちて行く。地球空洞説なる摩訶不思議な考えがあって、地球も実は中身は空っぽで、その内側の表面には人間の居住が可能だとする考え。科学的的ではないが表裏一体で面白い。
さて彫刻の基礎でいうところの構造やら量のイメージはmass(塊)を前提としての概念であり、空洞=空っぽは生命感を欠いた凡そ彫刻の本道から外れたものとしてある。ただ、客観的には石膏像そのものの内部は空洞であり、内部は同じように意味を有しない表面が広がるのみである。それにしても空洞という何も存在しない表面が作り出す空間がなぜこれほどに多くのイメージを喚起させるのか。空洞とは多くの要素で満ちあふれ充満したイメージの量塊であろうか。
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2008年08月01日

●庭園美術館と舟越桂

東京都庭園美術館で開催されている「舟越桂 夏の邸宅」の内覧会なるものに行った。庭園美術館というアール・デコの装飾に彩られた空間と舟越氏の作品との静かな関係が穏やかに深く美しい。こうしたパーティー形式のものへの参加はひどく苦手で腰が引けるのだが、なかなか有意義だったし興味深かった。ひとつには久しく会わなかった多くの知り合い、友人達と再会できた。作家の舟越氏のスピーチにも感心する。気取りも無く常に自然体で他者に対する敬意が感じられるのが心地良い。舟越氏の作品は今まで全て発表毎に見てきたものであったが、矢張り空間との対話が感じられ、初めて入った美術館への関心もあって新鮮であった。
 当の舟越氏は順番を待つ客人に疲れを知らぬかのように笑顔で対応して、私など入り込む隙間も無い。失礼とは思ったが強引に分け入り退席の挨拶を交わし失礼した。
 帰りしな庭園を覗いて見る。木々に囲まれた緑の芝生に真っ白な大理石の抽象彫刻がまばゆく輝いていた。「やはり彫刻はいい・・・」と豊かな気持ちになる。

10月、舟越氏が我が学生の為に来てくれることが決まった。恐縮である。

彫刻へのまなざしが洗われることを期待して。
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/funakosi/index.html

2008年07月13日

●グロテスク

ペットブームにデブ猫、奇妙顔に「ちょーかわいい!」で何もかもがきれいに収まる昨今に「生」なリアルさはお呼びじゃない?!ましてや空想、想像は絵空ごと、進化し続けるバーチャルリアリティーだって裏を返せば嘘八百?!殺菌、消毒、臭い消し。爽やか爽やかのCMは留まるをしらない。どこまでも続く無菌室。「キモイ」で切られる生っぽさは逆に今では重要なリアリティなのだ。
 「グロテスク」という言葉がある。生理的嫌悪感を有する言葉として現在では肯定的な意味は薄いが、こうしたものにこそ隠された真なるものが潜んでいるのではないだろうか。例年のモチーフとして登場する「七面鳥」。そのグロテスクな様相に圧倒的な存在感。怯まずに見続ける。いつかはその背後にある何物かが立ち現れる。
 

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2008年03月06日

●周遊/美大卒展

美大卒展雑感
私立美大、東京芸大の卒展を見た。半日だけの駆け足ではあったけれど、春の天気にも恵まれ足取りは軽く。
学部、大学院も含め、すいどーばた出身者もかなり多く、行き先々で懐かしい面々と会ったり意外な人に声をかけられたりと、喪失しかけた記憶が再生するようで嬉しかったが、健忘症ゆえの寂しさか、名前がなかなか思い出せない学生も多く失礼をしてしまった。一方で学生はそれぞれ皆驚く程逞しくなり、あるいは大人になって見違えるようであった。時の流れは恐ろしいものである。そして予備校での立体制作が、粘土オンリーであることを思えば、4年間での素材への対応能力はまるで異次元に近い程の変わりようで、技術力も含め「もうこいつらはライバルなのだ!!」とあらためて鼻息荒く自分を鼓舞しているのであった。

 六本木の国立新美術館での女子美、多摩美、武蔵美、日芸、造形大学。そして東京都美術館の東京芸大学部、武蔵美大学院修了展。さらに芸大彫刻棟と芸大美術館での大学院修了展。いつもなら好きな建築科やデザインの仕事も見るのだが今回は彫刻展示だけの「はしご」。
展示を見ながら、一昔前とは比較にならない程の展示スペースの広がりに驚き、そして時代の流れを感じながら、思いがけない作品に出会って喜び、そして一方で愕然とし、ため息も出て鑑賞後の感想は正直複雑であった。
とりわけ、時代を反映していてか、作品の表現手法の類似化、伝統工芸学校のように技術力と共通のイメージを繰り出すその作品の多さに少々げんなりもしてしまった。表現のオリジナル性とは別に習得した技術の博覧会のようでもあり、大学での思索的訓練はどうしたのかと疑いたくなる。言わば、大袈裟な言い方ではあるが、人種の坩堝たる予備校での学生達のひとりひとりの顔を思い浮かべながら、組織とヒエラルキーと時代と社会の「フレーム」をもみるようでもあった。
 それはそれなりに収穫ではあった。
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2007年11月15日

●彫刻科講師達によるグループ展「RE:2007

同じ高澤学園の創形美術学校併設のギャラリー「GALLER A PUNT」での展示。
独自企画による初めての展示なのだが、つまりはこうしたメンバーで行うだけの動機付けが今まで無かったということと、受験至上主義的な現場に言わばアーティストとしての積極的な側面を押し出すことができにくかった?、結局は「余裕」が無かった?
 しかし理由はどうあれ同じ教育現場にいる作家として、学生に対する直裁なメッセージの、そして積極的な機会作りはやはり重要なことだと思う。
 企画に対してはかなりの話し合いを行った。最終的にはこれだけ違う「表現者」の中に共通する事項と言えるものに焦点を当ててみることに。
* 影響を受けた作家なり人へのオマージュをテーマに。
(作品を作る上での動機付けや出発地点の再確認。)
* さらに、自らをもう一度振り返ってみる、自分の原点を探ってみる、といった広がりまで。
さて、こんな感じで始めてはみたのですが、現状の作品制作の延長といったことから少しは抜け出すきっかけになったでしょうか?
 あるいは自己の原点に回帰できるほどのものになったでしょうか?
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2007年08月23日

●ゴミと彫刻

「ゴミ捨て禁止」、至る所に見つけることのメッセージ。よく思うのだが、捨てる輩は捨てることが悪い事も、ものによっては犯罪であることも承知でやってる確信犯に近いのだろう。その意味ではこうした張り紙が有効だとは思わないのだが・・・。ましてやそうした張り紙に捨てられる側の怒りや恫喝が加わると、捨てる側の悪意に満ちた対抗意識はさらに増幅されるようである。
 よく「汚い場所には彫刻を置け」なんて言われたものである。つまり環境を変化させる為の有効な手段だということなのだろう。
 この手の話で思い出すことがある。
以前、野外シンポジウムを企画した折りに、オーストリアの作家が作品設置に「ある場所」を選択した。それは湖畔の森の中の「ゴミ捨て場」だった。
作品は「晶」(クリスタル)という漢字をコンクリート素材で立体に起こし、その中にタイマー仕掛けの電気照明を入れたものだった。昼の間その作品はゴミにまみれて作品としての判断は難しい。しかし夕暮れと共に日が落ちるとその「晶」は鮮やかな光を放ち発光し闇の中に浮かび上がる。そのコントラストに拍手喝采したものである。
 とりわけその場所は、湖水で毎年行われる花火の眺望の場でもあった。
「花火、きれい!!」といいながら捨てられるゴミ。いみじくもそんなコントラストとも似ていて想いは一気に複雑になるのである。
 とりあえず、自分の作品が「ゴミ」と言われないようにとも思うのだが、未だに自信が無い。
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2007年08月07日

●画廊にて

先日、銀座に知り合いの個展へ。久しく会ってはいなかったけれど、その活躍振りは知っており楽しみに出かけた。会場ではこれまた何十年か振りの後輩(とは言え、みんないい歳なのだが・・・)にも偶然に出会い、嬉しい時間を過ごした。
作品は木彫の人体。アニメのキャラクターを立体化したようなしっかりと作り込んだフィギュア的作品。昨今注目されるサブカルチャーの流れの恩恵?とも言える作品の出来映えにうなりながらも、一方で自分の足場の脆さも味わうような妙な気分にもなった。
 と、帰り際の芳名帳のそばにふと懐かしい作家のカタログが見えた。
「舟越保武」氏の作品集。
  作品写真というよりは、カタログのタイトルが示すように、一冊は「石と随筆」、もう一冊は「舟越保武のアトリエ-静謐な美を求めて」とある。
 舟越先生(私が学生当時、芸大教授として指導にあたっていました)に関しては忘れ得ぬ多くの思い出があり、何かことある毎に私の中に再来する作家でもある。それは山深い渓谷で釣りをしている時に出会った岩の存在に感動した時、あるいは暑い最中に無心に制作する瞬間だったりと様々である。
 単にノスタルジーではなく、舟越先生の、作品が生まれる瞬間やそこまでのプロセスに触れる時、生き方そのもに合致した作品の成り立ちの有り様が見えるようで嬉しくなる。どこかで「こう、生きればいいのか・・・」とさえ思えるような心の静寂に包まれる、そんな感じなのだ。
二冊のカタログを買い、帰りの電車でカタログを拡げた。

作品の力とはきっとその人の「生きる力」に等しいのだろう。
そんな作品を作りたいものである。

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舟越保武 石と随想  求龍堂発行

2007年05月18日

●ベンチ、されど彫刻?

楽しみにしていた科のスポーツ大会も突然の雷雨で中止。
嵐のように通り過ぎた後の公園は、行き場を失った雨でまるで池状態。
光もさし始めた木々の下にベンチがひとつ、というよりその状況はまるで水に浮いた彫刻。
 マルタ・パンという作家の作品に「水に浮いている彫刻」というのがあります。白いポリエステル(このベンチも同じ素材ですね)の抽象形の立体がゆったりと水面に浮かんだ作品です。重力が無くなったように浮遊する姿はとても優雅です。
 「水に浮くベンチ」というのも機能を有した体験的彫刻と言えるかもしれませんね。

●変われば変わるもの

以下の写真は某美術大学の資材置き場の石、そしてアトリエの一部。僕はこうした展示とは違う、何気なく置かれたものの状況や空間、そうした時間の堆積のようなものを見るのが好きなんですが。予備校生にとっては10キロ程度の粘土にさえ悪戦苦闘していたのが、大学に入って1〜2年もするとまるで人が変わったようにこれほどの物量にもチャレンジできるようになっちゃうんですね。
 身体のスケールを超えたものへの憧れがどこかにみんな潜んでいるんでしょうね。
受験生の皆さん、内部に秘めたパワーのあることを信じて頑張ってくださいね。

●この存在感

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