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2010年02月05日

●雪が暖かい

全国的に雪。東京は今年一番のハンパじゃない雪となった。
それにしても、案の定まったくあっけなく首都圏の交通網は分断、麻痺。天気予報で誰もが大雪となると知っていてのこの状況なのがよくわからないが、きっと事故がないように、ピリピリの緊張感の中で働いている沢山の人がいるのだと想像する。

 一方で授業を終えた学生等は嬉々として、はち切れ、はしゃいでいた。
みぞれ程度のべとべと雪でも彼等には童心になれる最高の瞬間のようで、見ていて思わずこちらもスキップ。こうしたハプニングは世の中のお父さん方には悪いがなかなかいい。

 翌日の公園。残った雪が輝いてこれもなんと気持ちいい。卒業制作展の美大への道、晴れやかに澄んで雪も祝いの白となって祝福しているかのよう。
 
結局、雪のため帰宅できなかった睡眠不足の私に、朝の光がぁあ〜まぶしい・・・・。

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芸大の卒展に向かう早朝の上野公園にて。

2010年01月21日

●うれしいをもってかえる

直前講習も始まり、実戦に向けたカリキュラムも怒濤のように加わって、入れ替わり立ち替わりで、モチーフも「忙しい」。彫刻の体力的、肉体的、物質的なモチーフと比べ、この時期の日本画やデザイン科のモチーフはさすがに少々うらやましい。市場に出される一足早い季節もののモチーフが加わってこちらの心も踊る。余ったモチーフもご覧の通り、春の香りが漂い、なんと言うか、もう合格さえも自分のものにしてしまったようなそんな明るさを放出している。
通る学生が一輪手にうきうきの笑顔がいい。これから本番の殺伐さに「お花、一本いかがでしょうか?」その晴れやかさで合格も頂き!といきたいですね。風邪などひきませんように。

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2010年01月05日

●謹賀新年

あけましておめでとうございます。
なんていいながら、みんなそんな気分じゃなくて、必死必死の毎日、年越しだったかもしれませんね。私も年明けからの個展を控え、受験生同様、毎日が怒濤の戦いで過ぎていきました。
それでも、久しぶりの学生諸君の顔はなんだか力が抜けていて、食べるものもしっかり食べて、睡眠もたっぷり、といった健やかな顔してましたね。
 近頃は地方出身者もかなり減って、郷土色が豊かという感じではないのですが、それでも帰郷組の話しはとても新鮮ですね。
 多種多様。そんな坩堝(るつぼ)のような混色状態が活気に満ちていていいですね。著名アーティスト達の根源も生まれ育った環境、そしてこうした多くの人達との交流から生まれたと言っても過言ではないでしょう。交わす言葉も無言のライバル心も、きっと何かを生み出す要素となるのでしょう。
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2009年12月02日

●地平線

都市を歩いていて空を仰ぎ見ることは少ない。ましてや地平線など意識的に感じない限りその存在さえ忘れてしまう。こんな時はやはり旅へでも思うのは私だけだろうか。一本の地平線を見ることは水平線を見ること以上に稀である。いつだっか夜の都庁の展望台から360°の都内を一望したことがある。累々と続く灯りとその建造物に圧倒され、文明というよりも信じがたい程の人間のエネルギーを感じて、単純に「はぁ〜・・!」とため息が出たことを思い出す。ひとつの地平線に交わるように1本立つ。そんな光景を思い、私ならどんなものを立たせるのかと想像し。圧倒される程に林立するビルの間から地平を想像してみる。

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2009年10月30日

●近視眼の驚き

モノに近づいてみることがある。視点が変わって違う世界が見える、そんなことを期待してのことなのだが、近頃は老眼も入って焦点もなかなか定まらず辛いのだが、それはともかくゆっくり外堀を埋めるように中心に向かうのだ。手で触れるように目で追いながら、しばし硬直して。対象物と等身大になる、そんな気持ちで。
 遠くを眺めていた私の前に突然出現した虫。一気に焦点を手前移し例のごとく自分の気配を消して眺め入る。不思議さ、というより「これは戦闘機だね」と緊張しながら顔を近づける。動かない虫の神経を思う。私より図太い・・・。と思った瞬間に飛び去った。私の中にどでかい存在を残しながら。
文献によるとミツバチなどの昆虫の羽ばたきは約250回/秒なのだそうだ。
 え?!、どうやって??!!
やはり、降参なのだ。
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2009年10月09日

●生真面目台風

台風一過の秋晴れ。学生等の通学の足も一時足止めでひどく出鼻をくじかれた感じ。それにしてもつくづく意地悪な台風だったなぁ〜。近年は日本上陸の台風もかなり減少していることもあり、久々の大型台風の来襲に日本中が「気合い?」が入っていた。太平洋でいっぱいに水分を吸ったわんぱく者は蒙古来襲さながら上陸。「おらおら〜!!」とばかりに荒れて雨風ぶんぶん。通常はこのまま日本海に抜けて熱帯低気圧かなんかになって「さよなら〜」と消滅なのだが、この台風は違っていた。日本列島をまるでなぞるように北上。ほんとに几帳面な台風であった。被害も甚大で亡くなられた方も。再生と崩壊。簡単には言うが、冬を迎えての生活を想像しやはり憂う。しかし崩壊と再生。人はあくまで強いようである。
受験生諸君!崩壊した自己作品の再生に向けて頑張りましょう!! 

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2009年08月10日

●線の風景

夏の暑さも本格化しないまま台風も襲来し、燃えもせず、発散もせずのフラストレーションが溜まりそうな夏。若者でなくとも「少しははっきり夏は夏らしく振る舞ったらどーだあ!」くらいの苦言をお天道様に申し述べたくもなる。逆に学生へのデッサンの指導は理由を欠いたリベンジ精神さながらさらにエスカレートして濃くなっていき、中には涙ながらに逆襲を試みる学生もいてこちらはこちらでキナ臭い。
 最中、ふと息抜きに外へ。夕方の風景に線が浮かびあがる。何かやけにノスタルジックな記憶を呼び覚ましてこれも危ういのだが、その郷愁じみた記憶がどこから来るのか、心当たりはいくつかある。
 作家「松本竣介」の線の心地よさに心動かされたのはいつのことだろう。
線の多様さとシンプルな線が含む深さと。 台風来襲のどんより空に線は適度な奥行きで浮かび上がり上昇していく。
さてさて、すこし重荷を解いて夜の指導へと向かいましょう。
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*高澤学園発行/松本竣介デッサン集より

2009年05月15日

●花びらの軌跡

5月は花の季節。特に北の大地では、冬を耐えた植物が満を持したかのように一斉に咲き誇る。
咲いた花は散るのだが、これにもそれぞれ特徴があって面白い。椿はボタっと落ちてある種不気味でもあるし、モクレンの花も派手に落ちて褐色に変色し大地に溶けて行く。ある夜、光の点描のように輝いた道に出会った。まるで星が落下したかのようなその正体は、遠くから風で運ばれた桜の花びらと気づき驚いた。
 こうしたものの自然落下が作り出すバランスはまさに絶妙だ。現代美術の巨匠、ジャクソンポロックはキャンバスを床に置き、無意識によるドロッピングという手法での全く新たな絵画を成立させた。自らが無意識となって自然と繋がるというものなのだが、どんな表現にしろ、人間精神の追求にしろ、やはり自然回帰へと向かうのだろう。自然が織りなす絶妙の落下の軌跡。全ての意味を凝縮させて花びらが光り、風で揺らぐ。 

雨水に器にユキヤナギの花びら
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2009年04月01日

●桜

2008年度全ての試験が終了。最終の結果は報告の通り。学生達の奮闘が光る。
  初桜折しも今日はよき日なり (松尾芭蕉)
今年も満開の花を。

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2009年02月20日

●薄氷花

雪になりそうだという昨夜の天気予報。試験の始まった受験生にはこの時期の雪は厄介者だ。天気だけでも穏やかであれと願ってしまう。3月も近く雪は降ってはすぐに溶けるとは言え、朝の通学や試験会場までの交通への影響を考えるとやはり辛い。
幸い、今朝の雨は雪に変わる事もなく、午後には青々とした空がこうして広がっている。

 「雪は天から送られた手紙である」
この言葉は、日本の雪の研究の草分け的存在、中谷宇吉郎の言葉である。特に雪の結晶の生成は神秘と謎に満ちているのだという。
寒さの中でも心は凍らせることなく、光を浴びて輝ければいい。そして神秘や謎への興味は好奇心のスイッチをオンにさせる。くたくたになった受験生だからこそ、自然のささやかな出来ごとにも心を踊らせて。
 きっと良い知らせは届くはず。

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2009年02月17日

●梅の花

春一番も吹き、夏日にも近い暖かさという異常気象のおまけまでついたこの一週間。また寒の戻りで「やっぱり、ほら。」と気を引き締めて。一方でヒートアップしてきた受験は急上昇で加熱!!!。でも受験生には夏日どころか寒さも暑さも気にしていられない、ここ一番の勝負所。
受験対策の為の課題も多数を極めて、そのためのモチーフが次々と惜しげも無く消費されていく。安価な季節の植物は格好の課題モチーフだ。
 というわけで、ほらもう「梅の花」。過熱気味の気持ちを抑えるかのようにほのぼの。
なんだかやっぱりがんばった人には春が来る。


「梅一輪 一輪ほどの あたたかさ」
                 服部嵐雪

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2008年11月24日

●不必要の意味

「超芸術トマソン」というのがある。赤瀬川原平らが唱えた芸術上の概念で、例えば使用方法も不明でその場には不必要なものであるにもかかわらず、何故か美しく保存されている構造物とか、全くその場所にはそぐわないものなのに何故かそこにある物。つまりは無用の長物を意味する。トマソンというその語源もかなり際どいのだが、こうした無用の長物への愛すべき眼差しや想いが感じられて、とても楽しく、ハッとする。
しかし、不要だから「つまらない」とか、意味が無いから「存在価値が無い」ということも無く、いわば、そうしたものにこそ面白さも美しさも存在するという発想は、いわば健康的で常套な美術の考え方である。
物事はその「意味」において有用なのではなく、「美しさ」や「面白さ」「不思議さ」といった感性や感情と直結し、意味へと変容してくのである。
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2008年11月08日

●健康のため、人類んため〜

すいどーばた恒例、一年に一回の健康診断。レントゲン、尿検査、問診、心電図、目、血液検査。人間ドッグまではいかないものの、自分の体の状況に関してかなりの情報を知る事となる。そして、こうした検査の精度を高めるために、前日夜からは食事もとらずに体をニュートラルにして備える。メタボへと邁進する日々の過食を戒めるには、なかなかいい機会ではある。
 イスラム教のラマダーンの断食には「罪を許すという効果」そして「肉体を健康にし、病気を防ぐという効果」があると説く。こうした教えに限らず、飽食を止め健康になることに勿論異存は無い。
 ただ・・、とても子供じみているのだが、どうも私は血を見ることに慣れていない。というより血を見ると自分から血が引いて行く。ましてや意味も無く自分の体内から血が引き抜かれ、流れ出して行くといった状況に耐えることにかなりの労力を要する。
 頭の中で「1+1は〜・・・」「今日の昼ご飯は〜・・?×△」と唱えながら、平気のヘイで人の腕に針を刺す看護婦の、あのマニアックとも思える微笑みと眼差しに侮蔑の言葉を心の中で叫ぶのである。
 「記念撮影しなくちゃ!」と義務も意味も無い行動。携帯片手に「カシャ!!」
 針の「ちくり」と重なって見事成功!もう私だって立派な大人。こんな痛みなんて。人類のため、平和のため、いや、私の健康の為ならばなんのその〜・・・・・・。
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2008年10月25日

●天使の花

私の通勤は少々過酷だ。山梨との県境から片道2時間半近く電車通勤。新宿から山の手への乗り換えはマラソンでの最終コーナーを回った、そんな安堵感と同時に、満員電車の中央線で熟睡した頭を切り替える、そんな時間でもある。もうこの時間の山の手線は車内は空いていて、穏やかな目白駅での下車はいたって清々しいものがある。
 そんな中で先日、吊り革につかまる私の目の前の座席で必死に折り紙を折る女の子に出合った。お母さんは携帯片手に静かにメール打ち。女の子はたまにお母さんに話しかける。もちろん手と目は膝の上の折り紙へ集中している。私はいったい何ができるのかとその手を追った。電車の中、膝の上という不安定な中で、女の子の手はまるで魔法のように几帳面に折り紙を折って行く。
 こんな小さな手でなぜこれほどのことができるのか不思議で不思議で。さらに折り進められて行くその折り紙の奇麗な色の対比にも見とれ、「おじさん」はもう固まったように見続けた。
 と、その子が突然顔を上げた! 目と目があってしまった!
「まずい!!」とおじさんは分けも無く焦りたじろいだ。すると、その子が手を差し出した。
 「あげる!!」と・・・。

実は私には子供恐怖症的なところがある。どうもあの純粋さの前でうまく振る舞えないのである。 顔は引きつり、やっとの思いで受け取り、その折り紙を胸にあてがい勲章のようだとポーズ。女の子は僕の顔の引きつりを見て、うれしそうに引きつった。
 まるで天使のようなその手から渡された折り紙は、僕の心を満開にさせる「花」だった。

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2008年10月11日

●濃く深くトルコ

今日はあったかいコーヒーがいい。そんな肌寒さ。一気に20°を切った。学生も無言に気合いが入っているだろう。寒さと気合いはイコールなのだ!!と学生の真剣さを想像しながら、腰を痛めて出講もできない自分を無理矢理に鼓舞してみる。
 コーヒーと言えばトルコのコーヒーを思い出す。トルコの飲み物と言えば一日10杯は飲むという「チャイ」という紅茶。とても爽やかで飲みやすい。一方の「トゥルク・カフヴェスィ」、つまり「トルココーヒー」は粉ごと煮出して上澄みだけを飲む、日本人にはかなり濃い飲み物。自ずと沈殿したコーヒー粉が底に溜まる。そのコーヒーを飲み終わったらカップごと逆さにして受け皿に置く。しばらく置いてカップの中を覗くと、カップの内壁を伝ってコーヒー粉が落ちて行く模様ができる。その模様でその人の性格判断や将来を占うのである。これが実によく当たるのである。「だって、あなた、僕の事知ってるでしょ?!」と、占い事には異常に疑い深い私なのだが、こうした占う人の一言一句の文学的な言い回しについ頷いてしまうのである。朗々と謳い上げるように真剣に人生を語ってくれる。たったひとつのコーヒーで、それも飲み終わったコーヒーがさらにコミュニケーション役割を果たす。小さなコーヒーカップは濃く味わい深いのである。
 痛さで動く事もままならない今、メタボへの道と知りつつ流し込むミルクの軌跡を追いながら、展覧会の展示を終えたあの寒い冬、イスタンブールのボスボラス海峡を眺めながら飲んだコーヒーを思い出すのです。
 「わたしのわたしのコーヒーさん、あしたのわたしをおしえてください・・・。」
今日の白いミルクは、表面をくるくる回りながら無音で溶けていくのでした。
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2008年10月07日

●ロマンチックに

「あ〜・・今日も雲が流れる・・」と、まぁ、真昼の紺碧の空を見上げ、そしてまた夕焼けの紅空に心を「じわ〜ん」とさせる。他人の評価とは別に、どちらかと言うと感激屋であり涙もろくくデリケートである。
 「うちの子は気が弱くて・・」と嘆く母親。しかし裏返せばデリケートなのだろう。デリケートじゃない作家なんていないわけで、だから気が弱い事はある種の才能とも言える。そしてこうしたデリケートな感情はロマンティシズムへと繋がる。
 話しは違うがロマンチックな感情はどうも男の方が勝るようである。学生を見ていてもそう思う。男の方がデリケートでロマンチストなのである(あまり根拠も無く自己弁護にも近いが・・・)
 抜ける程の空、無限の広がりを見せる夕焼け。言葉では語れない程に神秘的で夢のようで。自分の内部に存在する特殊な感情とが合体し、想像性とが絡み合い、心が解放されていく。一時の猶予を持って訪れるであろう不安や憂鬱さも引き連れて、心は何か心地よく宙を彷徨うのである。
 そう今日も泣ける程の空を仰ぎながら想いを描くのである。ビバビバー青春!
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2008年09月30日

●そこはかとなく

秋とはいえ、まだ暑さが残っている。今年は学生、講師で行く恒例の夏山登山も腰を痛めてキャンセル。雨男である私の不参加は、矢張り近年に無い「快晴」の中の登山で大成功!との連絡。学生達の顔を思い浮かべながら、取り敢えず安堵するものの何とも素直に喜べないこのモヤモヤ感・・。残念なことに人の喜びより自分への悔しさが勝る、ほんと、心のひろ〜い大人にはまだ成りきれていないのだ。
 今年の登山は学生数の減少にありながら今までで最も多い参加数と聞き、彫刻科の同族意識の強さをあらためて見せつけたと同時に、彫刻科連中の自慢は肉体なのだということを図らずも証明する形となった。つまりは最も体育界系に近いというべきか。そして毎年、登山した学生の合格率が高い!というジンクスが今年は崩壊しないようにと祈るばかり。
 
 ひと時の高揚した精神が夏の象徴であろうか。思い出は確実に彼らに刻まれた。
朝顔の花はまだまだ絶え絶えの大輪を咲かせている。役割を終えた石膏像は初秋の雨に濡れている。悲喜こもごもの秋がやって来る。精神の炎を燃やす季節がやって来る。頑張れ諸君!!
あの山の頂きを忘れるな〜!!快晴の空を掴み取れー!!

2008年09月08日

●そこにあるもの

仕事をしていると何気なく目にとまるものがある。生活の中でもそうなのだが、人が動くとそれに連れて物も動く。正確にはものが散らかって行く。健忘症の私は特にその傾向が強い。別に何の美意識が働くわけではない。しかしどうだろう。ふと自分の行為の軌跡の中に、あるいは生活習慣が作り出したものの中に、意味も知れずその存在の美しいと感じることができる瞬間がある。それは多分に自意識の中でしか成立しないものなのかもしれないが、それがどれだけささやかなものであれ、まるで自分の宇宙に飛び立ったような喜びに満ちるのである。

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2008年08月06日

●スコール

今年の夏は何か異常だ。真夏日の空に沸き立つ不穏な雲。劇的なドラマの始まりならワクワクなのだが、何かが違う。天変地異の予感は百鬼夜行の恐怖感さえ漂わせる。ニュースでの様々な事故は都市でも地方でも隙あらば人を飲み込んでしまう。事故の無念さは筆舌尽くし難く悲しすぎるが、一方で自然への畏怖感や野生としての直感の欠落への警鐘であるならば、失われた何かを呼び覚ますチャンスとなるのかもしれない。
 今日も熱帯を思わせるスコールのような雲、風、雨、稲妻。自然のエネルギーに麻痺した感覚を覚醒させながら夕暮れの鮮やかな夕日に佇むのです。
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2008年05月10日

●ゲーセン宝塔

めったに行く事は無いのだが何かのついでにフラッっとゲームセンターへ入ることがある。
ゲームをする訳ではない。
あの騒々しさになじむ訳でもない。
ただ異次元とも思われるこの空間世界に惹かれるものがあるのだ。
郷愁に満ちたメリーゴーランドのような、あるいは逆に一触即発のカタストロフィーのキナ臭ささえ漂わせる空間、そんな空間に惹かれるのだ。それは、昔、子供の頃に見た祭りの光景とも重なり交差し、全ての感情を逆撫でしながらも何か温かさに包まれる不思議な感情だ。
 仏教世界に「宝塔」というのがある。釈迦が説法をしていると大地から金、銀、瑠璃などの七宝で造られた巨大な塔が涌出し、空中にそびえるというものなのだが、いわば恐れ多くも視覚的にはそんな瞬間の様相なのだ。
ゲームセンターが宝塔?いやいや、あれ程の喧噪、まがい物のきらびやかさ、欲望に流されない自己。きっとそんな精神の中にこそ宝塔は出現するのだろう。
 ゲーセンで合掌する私でした。

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2008年04月10日

●春の舞い

連日の春の暴風雨。この時期にしては珍しい。
散りかけた東京の桜に追い打ちをかけるような、そんな強烈な雨風。

たまたま新幹線で名古屋へ。久しぶりの車窓からの風景を楽しみながら、到着地は快晴。強張った体も心も解けてしばし「ふっくら」して。
 
その日に帰宅。そう、戻った東京はひどい暴風雨。この妙な時間差にびっくりへとへとになり、そして熟睡夢の中・・・・。

早朝の庭。満開の桃の花が見事に地上に落下。雨による押し花の様。
ジャクソンポロックのドロッピング以上の間合い。

湿気を帯びた土にピンク。

肌寒い一日は今日も続いてます。

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2008年03月17日

●溶けていく

嵐の前の静けさ?大学の入試も終了し、あとは最終結果を待つのみ。
あれ程の緊張と昂りも過ぎて、今は一斉に萌出しそうな木々や花々の気配の中にいる。久しぶりに和んだ空気の中で、山々はふっくらとピンク色に膨らんでいる。1年の中で最も穏やかな季節。できるならば、できるだけ心も身体も弛緩させてスポンジのようにこの空気と光を吸い取ってみたいものである。
 受験生の皆さん、本当にお疲れさまでした。
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2008年01月28日

●視線の行方

遠くの景色がある日くっきりと見える時がある。霞む山々の森の木々の葉の一枚一枚さえもくっきりと浮き上がる。その恐ろしい程膨大なエネルギーに圧倒される。
 都庁展望台へ夜景を見に行った。関東平野と言われし平原に夥しく永遠とも広がる建造物。人間の積み重ねた時間の膨大さの中のたったひとつの単位を想像してみる。
 目の前の踏切を満員電車が一瞬に通り過ぎて行く。隙間も無く押し合う人達のその一人を思う。「個と全体」といとも簡単に言ってはみるものの、日常での私の視線はいつもその両極を行き来する。

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路上の石畳、植物の葉他。ものを成立させる単一要素への視点を持つ事で、さらに内部へと入り込む。路上のつぶつぶのつぶが、その中のつぶ・・・・。視線の行方は想像の行方でもある。

2008年01月26日

●血が騒ぐ

寒い・・。
なんという底冷えの日々・・・。
昨年は雪も降らず、地球温暖化はやはりここまでかぁ、と実感したものだが、ここに来ての冷え込みは老化深まる我が身にはひどくこたえる。さらに追い打ちをかけるようにとうとう恐れていた雪が降った。それも朝から日中、堂々?とである。降るわ降るわみる間に降り積もった雪がなんと10センチ近く!
となると訳も無く騒ぎ出す雪国生まれのDNA、そしてさらに沸き立つ創造魂。
「雪が降って喜ぶのは子供だけ〜」とうそぶく生活優先の大人の現実思考も一気に崩壊して、その「喜ぶ子供」になってしまう。当然近所の子供やお昼の奥さん方も一歩引いてその姿を遠くから眺めることとなる、も気にせずにひたすら取り敢えず雪をかき集める。汗が吹き出る。手は冷たさを通り越して赤くなる。寒空でTシャツ姿のおっさんは矢張り異常ではあるが、それはもう自己内部では輝かしい勲章にランクアップされている。遠くで成り行きを見守っていた近所の子供達が何やら近づいて来る、が、もう私にとっては「ライバル」と化する子供に笑顔を見せる余裕も無いのである。
そう、そしてひどく無邪気に、そしてシンプルに汗の結晶が出来上がりました。
やはり、冬はいい。


幽玄な風景にしばし見とれて・・・
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晴れた空にみるみる溶けていく雪のオブジェ
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二回目の雪。前回の反省を込めて不純物を無くしてより硬度を高めて。
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2007年12月27日

●花

先日カレンダーを買った。写真家アンドリュー・ローソンのイングリッシャーガーデンの花のカレンダー。色鮮やかな花のクローズアップから乱舞,群舞する花々と、知覚の中心に突き刺さる程のインパクトに圧倒される。実は私は作品に度々こうした花を登場させて来た。ドローイング、立体作品、写真。そして時には大量の造花さえ。それは生の証であったり、逆に死のイメージさえ漂わせるものだったりもする。そうした花への魅力に向かわせた原因はある。子供時代のお祭り。青森に「ねぷた祭り」というのがある。夜、豪壮な絵が描かれた巨大な灯籠のようなものを引き練り歩くものだ。それは夜の漆黒に赤々とした巨大な花が咲くようでもあった。幻想の域さえ超えて呆然とし踊り狂う。
可憐にひっそりと咲く山野草の花もいいのだが、なぜかこうした圧倒的な鮮やかな魅力に引き寄せられてしまうのはその為だろう。ひとつの光景が自分の視覚を超えてさらに奥深くまで到達してしまうような、そんなリアリティー。されど、その強烈なイメージの中に非常にシンプルな何かが立ち上がる。その瞬間がいいのだ。そんな瞬間に立ち会う為に花を植え、花を探し、花を撮る。
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2007年12月07日

●続/秋深しーもっと光を

光が織りなす優雅な極彩色の世界。以前ドイツ留学から帰国した時に、ある種のカルチャーショックというものを初めて味わった時がある。その一番は、都市部で遭遇したファションの同一性と黒い髪の毛の集団への異様さだったことを今でも記憶している。そして一方で食材の豊かさと自然の風景の多様さに、こちらは絶叫する程にあらためて感動したものである。快晴の中央高速を一人車で飛ばしながら、危険とも思える両手上げで、次々と出現する紅葉の美しさに「美し日本!」を叫んでいたのである。
 さて、一方でそうした錦の紅葉とは対局に、光が織りなす空間にハッとすることがある。それは影が作り出す陰影の世界。どんな極彩色の世界もその影はシンプルな要素としてまとめられ、言わばシンボリックな程の世界へと還元されていく。目白の裏道。「目白庭園」の白壁。散る程に咲き誇る楓の紅葉も、白壁に落とすその影は密やかなほどに静かで暖かい。
 思わず光りと影の境へ手を伸ばす。光を捕まえられそう、そんな気がするのだ。

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●秋深し

落ち葉が舞う。別段、郷愁もないのだが・・・やけに気になる・・。田舎暮らしも手伝ってか落ち葉がどうも「宝物」に見えるのだ・・・。つまりは落ち葉を利用した「腐葉土」というやつ。ホームセンターでは意外と廉価な値段で売ってはいるのだが、どうもモノ作りの性分がウズウズと沸き起こるのだ。山道を走らせる車がカーブ切る毎に落ち葉を舞い上げる。そうしてたっぷりと堆積した場所をチェックしながら「明日はゲットだぁ〜!」と意気込むのだが、これだけ広い山道でも矢張りいるのだ・・ライバルが。
 初冬の風。落ち行く枯れ葉。わくわく感と焦る気持ちを交差させながら、湖の紅葉にしばし我を取り戻すのでした。
 
  秋色の
       落ち葉の道に
               光射す
う〜ん・・・もっと光を・・。

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2007年10月30日

●皮膜

「あちら」と「こちら」を隔てるものがある。例えば「カーテン」。外界を遮断するようにカーテンを閉める。それは安心感と共に重層な厚みを持った質感として君臨する。さらに闇の中では単純な空間の仕切りとして、閉じた空間を規定する。
 朝。光と共にその重層感は徐々に後退し、柔らかな皮膜のように透過性のある空間へと変容していく。
 何気ないささやかな機能の背後に、千変万化に富んだ要素と変化が隠されている。そうした要素はそこここにあるのだと思う。狭く四角い部屋の中で唯一存在感を見せるカーテン。確かに前夜は眠れず多くの夢の中にいた。
脳みその皮膜がうっすらと落ちて、夢の記憶も消えて行く。
 カーテンを開け、晴れた空からの光を招き入れる。さぁ、今日も頑張って「あちら」に行ってみましょうか!・・と思う。
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2007年09月15日

●道具と美

粘土用の塑造べらなど手作りし磨きあげ、何種類も並べばながら制作する姿に制作へのこだわりと、そのものの造形美に感心したことがある。
私の住む周囲の農家の人の何十年と使いこなし手になじんだ鎌や鍬。体の一部にでもなったかのような見事なまでの美しさにほれぼれしたことがある。

徹底した機能の終着地点として浮かび上がった削ぎ落とされた造形美なのだと感じた。

一方で釣りよりも釣り道具、撮影よりもカメラ、といった具合に道具への愛着からその世界に浸る人がいる。個人的な嗜好の中で選び抜かれたものへの美学とでも言えるのだろうか。

近頃の学生を見ていて、こうした道具にこだわったり大事にする学生に出会う事は難しい。共通の備品ともなるとなおさらである。ものを大事にしない、というよりは体や気持ちになじんでいくプロセスそのものへの無関心なのか、あるいは結果を追い求める受験にあって、そうした時間にかかわっているだけの余裕がないのか・・・・。
体と皮膜を通じて堆積されていく記憶や時間。こうして時間をかけて紡ぎだされたものの存在はおよそデッサンにも通じるものだとは思うのだが。
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* 機能美というよりは何気なくぶら下げられたスコップのリズムが気になって。

2007年07月19日

●あの空

一学期も終了し、最後のコンクールの成績に一喜一憂。様々な思いを胸にほんのつかの間の夏休み。今年は地方出身の学生が少なく、殆どが自宅通いの学生。
地方から上京してまで東京の美大を目指すというのは、それなりの覚悟で来るからなんでしょうか? でも昔と違って「故郷に錦を飾るまでは帰らない!!」なんて考える時代でもないしね・・・・。受験倍率の低下、そしてやはり1人暮らしの孤独を勝ち抜く力が受験勉強にも力を与えるんでしょうね。
 すいどーばたの建物に切り取られた僅かな空。
 梅雨の曇天から一気に突き抜けるような青空。

明日から夏の講習会が始まります。全国から勇士が集います。
目指すのはあの空です。元気な顔を見るのが今から楽しみです。

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2007年04月28日

●何気ない光景より

どばたの構内には何気なく石膏像が設置されている。見慣れた風景の中にぞっとするほどの光景に出会う。そんな日常を大切にしたいものである。


●雨の日のデッサン

雨になるとデッサンが潤う?なんてことがある?!
と、まぁ、そこまで反応しなくても、そんなイメージ力を持って少しは過ごしたいですね。彫刻の基本が皮膚感覚とすれば、なんと言うか「心の皮膚」みたいなものはいつも持っていたいですね。
でも大雨になったらみんなデッサンが「大荒れ」になったら困りますが・・・・。
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●連休こそ自由奔放?!リハビリ完了!

なんとゴージャスな連休。サラリーマンが聞いたら驚きのロング休暇ですね。
大概、この連休後に発生するのが「五月病」と言われるもの。入学当初の緊張感から解放され一気に力が抜け、環境の変化や一人暮らしなど状況も加わり、なかなか当初の緊張感に立ち向かうだけの気持ちが起こらない。そんな状況を言うんでしょうね。ただ、意外と彫刻家を志す人って、割と野性的な面を持ち合わせいたりとか、肉体的志向系(つまり頭より体だぁ〜系)の学生が多く精神的には健全?な学生が殆どですから、いわゆる精神的な病に陥っていく人って他の科に比べて極端に少ないですね。大概は精神的に弱った人でも体使って粘土いじってると体は疲れるけど精神的にはリフレッシュしてるなんてことありますからね。気持ちが落ち込んだら塑造をやろー!!なんてのもいいですね。
 いずれにしろ、各自の課題への挑戦、そして少しは逞しくなっての再会、おおいに期待してますよ!
皆さんのお土産話、待ってます。
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