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2009年04月30日

●断片

密集した住宅街、視野が広く開かれる空間への遭遇も稀で、迫って来る風景は近視眼的な距離となる。垣根越しの植栽の変化を楽しみながら歩くのがこうした路地散策のこつかもしれない。
 すいどーばたキャンバスは西武線の線路を挟んで3カ所に点在していて、広くはないのだがそれなりに個性的な空間が存在する。とりわけ無用とも思えるコンクリートの構造物の断片に目が行く。その量塊に潜むなにものかを感じられて、ドキリとしたり爽やかな気持ちにもなれたりするのだ。一種、彫刻病とも言える感情なのだと分かっていても、妙に太古の遺跡にも匹敵する時間の流れや清々の空と風を想起させたり、逆にキナ臭い人の生活が集積されて心の中をざわめき立たせたりと、断片の持つ意味は無限に広がって行く。こうして発せられた断片の光に気づいた瞬間、断片は一つの物語となって歩き出す。
考えてみれば、半世紀に及ぶ私の過去も連続の光景としてある訳ではない。記憶の断片が繋がり今という存在にたどり着く。

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2009年04月17日

●空洞

身体の中にある胃や腸の器官もその実は表面。口の中に放り込む食べ物は器官の表面を辿り落ちて行く。地球空洞説なる摩訶不思議な考えがあって、地球も実は中身は空っぽで、その内側の表面には人間の居住が可能だとする考え。科学的的ではないが表裏一体で面白い。
さて彫刻の基礎でいうところの構造やら量のイメージはmass(塊)を前提としての概念であり、空洞=空っぽは生命感を欠いた凡そ彫刻の本道から外れたものとしてある。ただ、客観的には石膏像そのものの内部は空洞であり、内部は同じように意味を有しない表面が広がるのみである。それにしても空洞という何も存在しない表面が作り出す空間がなぜこれほどに多くのイメージを喚起させるのか。空洞とは多くの要素で満ちあふれ充満したイメージの量塊であろうか。
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2009年04月11日

●初会

すいどーばた美術学院恒例の新学期初日の儀式となる「初会」が行われた。全ての講師、教務の顔合わせと紹介を兼ねたこの儀式も、昨今の厳しい世の中の状況にあって若干明るさのトーンは落ちたものの、個人的には、自分がこうした生きた組織の中にいる事をあらためて確認する良いチャンスともなっている。こうした現場で働くあらゆるジャンルの作家の集団はそれはそれで壮観でもあって興味深い。儀式に付きものの堅い「ご挨拶」もご愛嬌で、若手講師達の生き生きとした顔と姿こそ気持ちいい。
 
実はそれぞれもっと一人一人知り合いになりたいのだが、何ともシャイな私の性格が邪魔をしているようだでもある。
自己の価値観をしっかり持ち得た人の横の連携は、より多くの力を発揮するとのこと。これ東洋哲学の基本だという。ならば、この困難な時代、多くの交流で知恵を出し合って参りましょう、よ、と、ひとまず心の応援歌。

hajimekai.jpgひとりひとり紹介(黄色は教務トレードカラージャンパー)

2009年04月04日

●西表島

予備校講師にとっては束の間の春休も終了してしまったが、それでも、そうした合間をぬって恒例の講師旅行。今年は陽光ざわめく石垣島と西表島への旅行に決定。20代の若き女性講師、氷室さんを除けば皆既婚とあって、言わば「旦那集」だけがこんなのんびり旅行なんかしてて大丈夫なのかと、要らぬ心配もするのだが、「これも仕事、仕事!」とかまして心はVサイン。さて現地は思った程暑くはなかったのだが、それでもマリンブルーの珊瑚の中を泳ぎはしゃぎ、マングローブやらヤシやらの南洋の植物群に感動し、日本最西端という温泉に浸かりながら歓喜乱舞の時間を過ごすしたのであった。
 そんなこんなで珍道中ではあったが、一方で不思議だったのは、沈む夕日をのんびり眺めたり、遠くまで広がる海岸をただ訳もなくひたすらぶらぶら歩いたりと、それはそれで何も退屈することもなく、それだけで全員が過ごせてしまうという、なんとも奇妙な価値観の一致があって、彫刻家という人種の精神的優雅さ?になんだかそれなりに感動するのである。数センチの生き物の動勢に驚き、海藻の揺らぎにジョークを飛ばして大笑いとなんだか楽しいのだ。
今年も一年しっかり乗り切れる気がする。
皆さん、お疲れさまでした。
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2009年04月01日

●桜

2008年度全ての試験が終了。最終の結果は報告の通り。学生達の奮闘が光る。
  初桜折しも今日はよき日なり (松尾芭蕉)
今年も満開の花を。

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