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2009年01月30日

●自画像

「自分と向き合う。」
なんとも理性的で奥が深い言葉じゃないか・・・とは言ってももちろんそれ程簡単なことじゃないのだけれど。
デッサンとして頻繁に使われる課題に「自画像」がある。鏡に映し出される自分の顔に何を見るか。長時間の自分との「見つめ合い」は一方で過酷でもある。
美大の入学試験でも自画像は格好のモチーフだ。予算はかからないし、男女の区別は当然ながら、必要とあらば、面接替わりの人間性チェックまで行える内容を合わせ持つのだから。彫刻の基礎訓練としての自画像はしっかりと形態を掴むことに置かれるが、やはり表現される内容は無意識の世界も含め多様でそれに収まらない。自己主張の強さからナルシスト的な自己陶酔まで、隠れた性格も知らず知らずに現れ出る。人によっては自分への根拠を欠いた自信も強力な表現意欲だ。そういえば私自身は、自画像を描いた事も自刻像を制作した記憶も無い事にふと気づいた。自分を見つめることに慣れていない人もいるのだ。そんな私がこれ程までに学生達の自画像を今楽しんでいる。
若き日の自画像、自分と向き合う時間、訓練。こんな大人になってしまったし、やはり必要だったなぁ・・・と悔やまれる。
今日も生きのいい学生が生き生きと自画像を描きあげた。
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2009年01月29日

●作家の未来/山本正道展

東京藝術大学大学美術館で開催されていた「山本正道退官記念展」へ行った。
初期から近作までの彫刻約36点と素描による本当に見応えのある構成であった。
山本氏は私にとっては芸大在学時の指導者であり、また上下分け隔てないその人間性はもとより、作品制作への向き合い方を自らの姿勢で教えてくれた数少ない作家の一人でもある。最終日の会場で、偶然ではあったが何年振りかで先生とお会いし、ご挨拶をさせて頂いた。そして、あらためて「穏やかさとは秘めた闘志である」とあらためて先生に接して思うのであった。
 若き時代、イタリア、ローマ美術学校でのファッツィーニ氏のもとでの研究。アメリカでの先住民族の遺跡を訪ねての研究と、あの静かさには実は世界の土に触れ歩き抜いた体感的行動やその中で発見したささやかな日常の呼吸、そして遥か地平の彼方に去来する悠久な大地の記憶さえも潜む。だからこそ どこまでも静謐な世界は豊穣なのであろう。
 思えば先生とは世代的には調度一回りの違い。一方、先生の退官後を受け引き継ぐ若き指導者も一回り違いの世代となる。そうした中間に立つ自分の距離を心の中で直線にし点を打つ。若きも老いも鼓動する点となって未来へと進む。失ってはならないものは、だからこそ自らが輝くことなのだろう。

「私は単に長く大学にいただけですよ・・」先生が静かに語った言葉が頭の中でこだまする。
あらためて「存在」の意味を問われたようであった。
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2009年01月24日

●菌の運動会

風邪をひいた・・・。この私がである。つまり実はもう何年も風邪というものに縁がなく、学生に対しても「風邪をひく学生は校則違反だ!!」とうそぶいていたのだ。
ところがだ・・何か慣れない喉の痛みを感じると、その痛みはみるみる間に脳みそへ熱となって超特急で登って行った。普段は無理をしてでも雄々しく構える私も、ひとたび病(やまい)に冒されるとまるでだらしがない。熱を押して「這いつくばっても、気力でカバ〜だ!」なんて体育会系の根性はまるで沸き起こらず、ひたすら喘いでは床に伏すのである。早めの対応と病院へも行き薬も頂き対応万全と思いきや、熱はさらに上がるは鼻は詰まるは湿疹は出るは、まるで風邪菌の大運動会である。果ては家族内部での「隔離政策」も有無を言わさず即時決定され、ドア越しの梅干し入りお粥差し入れで栄養補給を施し、風邪菌の鎮まるのを闇夜の中で手を合わせひたすら待つのであった。
 さてさて皆様方、風邪は万病も元、くれぐれもご用心下さい。
 対応は早めに、復活を焦らずに。
 身体からのサインには敏感に。
 受験生の必須事項ですよ。

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2009年01月14日

●作家の朝2

すいどーばたでは多くの作家、美大生が指導にあたっている。その他、教務や事務の方の中にも熱心に作家活動をしている人達がいる。つまり学院そもものが美術のプロ集団であり多士済々である。先日、国立の画廊で開催している浅見千鶴さんの個展へ顔を出した。画廊の1階と2階全室を使用して,大作である100号サイズ作品数点を中心に15点程の作品による構成。いつもながらのダイナミックな筆致による生命観溢れる作品だ。この小さな身体でどうやって描いているのかといつも不思議なギャップを覚える。本人の説明によれば、狭い和室をアトリエに家族の苦情も顧みず一心不乱の様態だという。絵の具の臭いもさることながら、画布と格闘する形相にこそ本人の「絵で生きる」ことの様が想像できて凄まじい。話しの内容からも「逝ってしまう」程の集中力の中から、ある直感を持って目の前に立ち現れる瞬間を留め置くのだろう。絵具の積み重ねと削ぎの、その途方も無い行為からどれだけの女神が現れて来るというのだろう。一方で私としてはひょっと力の抜けたにこやかな浅見さんも大好きなのだが・・・。百鬼夜行、夜な夜な油をすするこわ〜いお姉さんには、どうかどうかならないで下さいね。もうじき春もやってきますから。
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2009年01月11日

●作家の朝

年が明け、賀状代わりの展覧会の案内状が沢山届く。中には年をまたいでの発表もある。
ここ数年はバブリーな世界経済にあって日本の画廊の世界進出も多く、活況を呈している。経済大国として台頭してきた中国の影響も大きい。私の過去の海外生活でも、こうした経済とアートの密接な関係を物語る現場を多く体験した。「アート市場」と言われるように経済原理はアートとてもちろん無縁ではない。ただ、アートそのものは既成価値観への挑戦であり、純粋に自己探求への手法であり、また、本来的には現実社会への革命的力を持った人間の表現である。ならば、作家は経済論理に翻弄され飲み込まれ消えて行く危機感に敏感でなければならない。
「成功が人を幸せにするのではなく、幸せが人を成功に導く。」
これはある脳科学者の言葉であるが、目の前の時流に乗ろうとするあまり、自己の本質さえ見失う。どの時代にもあることとて、その中に浸かっている当人が気づくことは至難の技である。
作家は常に新しい朝をむかえる。それが自分をも社会をも見極める一日の始まりの儀式なのだ。
彫刻科スタッフ、吉田朗の個展が年をまたぎ開催されている。絶好調とも言えるニッポン現代アート市場の広がり、一方で陰りを見せた世界経済。そうした潮流の中「仏間でクリスマス」と題し、痛烈な社会批判をユーモアで包みながら、自身とアートと市場とを冷静に見つめ熱き闘いを継続している。彼はどんな年の朝を迎えたのであろうか。次にはインタビューを交えて紹介したい。
 
 話は違うがその彼が結婚をした。
 この幸せが彼を成功へと導くのか?自問自答も込めて。
 
いずれにしろ、めでたい朝である。
おめでとう!
 

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2009年01月09日

●初雪草

初雪。未明から降り続いていたのだろうか、朝の風景を一変させていた。雪の朝はカーテン越しにもその「異変」を感じる。曇っているにも関わらず僅かな光をも反射して明るい。そして太陽が高度を上げるにつれて一気に溶け始める。アトリエから俯瞰する渓谷の底からは、斜面を伝って濛々と狼煙(のろし)のように水蒸気が上昇し空へと消えて行く。その様はまるで地球の歓喜ようで見入る私の魂を揺さぶる。雪に隠れていた雑草や畑の作物も、雪の「温泉」にでも浸かったように以前よりも生き生きと輝き顔を出す。
初雪草(ハツユキソウ)という植物がある。 原産は北アメリカ。葉に白い斑(ふ)が入っていて、まるで雪化粧をしたように見えるためそう呼ばれるのだが、実はこの植物、初霜にも初雪にも、勿論、寒さにも弱い。雪にしてみれば今日降ろうが明日降ろうが変わりは無いのだが、実はその雪によって際立つ何かの存在を意味しているのだろう。
 雪に触れてその冷たさを感じてみる。大地の熱を孕み、空からの極寒たる雪を友として生きるこの雑草に、手前勝手に「初雪草」と名付けてみるのである。
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2009年01月05日

●新年

新年、明けましておめでとうございます。
年度の移り変わり。この時ばかりは時間の流れの1秒を最も意識し、認識する時なのかもしれない。大晦日、その「ゼロ(0)」に向けて私もしっかり心でカウントダウン。そして、そのゼロの地点から離れれる程、なぜか時間はどんどんとスピードを増していくように感じられる。無意識に無自覚にそのスピードに流され、一瞬一瞬の輝きを失っていくのかもしれない。試験までの一日、一日。常にその原点に帰りながら、やはり生きるべき。結果はどうであれ、最終的には自分の中でやり尽くしたという自負心こそが次への支えとなるのだから。
 おごそかにおごそかに、仕事はじめ。
アッと言う間の充実感か、アッと言う間の虚無感か。
さてさて、長い一年の旅へと出発です。

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