« 2008年10月 | メイン | 2008年12月 »

2008年11月24日

●不必要の意味

「超芸術トマソン」というのがある。赤瀬川原平らが唱えた芸術上の概念で、例えば使用方法も不明でその場には不必要なものであるにもかかわらず、何故か美しく保存されている構造物とか、全くその場所にはそぐわないものなのに何故かそこにある物。つまりは無用の長物を意味する。トマソンというその語源もかなり際どいのだが、こうした無用の長物への愛すべき眼差しや想いが感じられて、とても楽しく、ハッとする。
しかし、不要だから「つまらない」とか、意味が無いから「存在価値が無い」ということも無く、いわば、そうしたものにこそ面白さも美しさも存在するという発想は、いわば健康的で常套な美術の考え方である。
物事はその「意味」において有用なのではなく、「美しさ」や「面白さ」「不思議さ」といった感性や感情と直結し、意味へと変容してくのである。
tomason.jpg

●獅子奮迅

先だって合同公開コンクールが行われた。湘南美術学院との合同コンクールも今年で早いもので5回目を迎える。およそ予備校が手を組んで行うというのも有り得ないのだが、事は真剣である。少子化に伴う学生数、受験者数の激減。それは裏を返せば美術人口の減少であり、競争意識を欠いたレベルの低下へも繋がる。とは言っても「競争」そのものが重要なのではなく、こうしたボーダーレスの時代だからこそ、予備校と言えども多くの交流の場への貢献が必要なのである。逆に言えば、受験や美術教育そのものを再考するチャンスなのだ。
「個」による美術も多様性の中からその「個」を確立していくのだし、開放された場こそ社会へと繋がる。空気は澱むより通った方がいい。質は接触し熱を帯び、さらなるエネルギーになればいい。ここにいる若き学生が確かに日本の未来を創り出すのだから。
koukai1.jpg


2008年11月18日

●霞を食う男

彼はいつも颯爽としていて、何事にも取り乱すということも無く、そしてあくせくせず、穏やかだ。勿論、結婚していて子供も大きいのだが、そんな妙な生活感もない。私からすると「霞を食って生きている」類いの人種の一人だ。
 彼はリトグラフの「刷り師」。もう20年来の友人である。刷り一筋、これ一本。緑豊かで閑静な住宅地の自宅の工房で黙々と刷る。刷るものも面白い。彼は画廊を回り、あるいは作家と交流し、琴線に触れた作家とコラボレーションする。作家決定の基準は様々なのかもしれない。私がその一人であることを考えれば頷ける。作家の中にはリトグラフは勿論、版画など一度も経験の無い作家もいて、とんでもない版を持って来る、普通なら「マジ切れ」の輩もいるのだが、彼はそうした作家の「難問」にも立ち向かう。こうした作家の中からメジャーになって行く作家も登場するのだが、大概は画廊が傲慢不遜にこうした作家を抱え込み不自由にしていく。彼の作家発掘はその意味でも個性的。

今日もきっと黙々とやっているに違いない。
  itazu.jpg


2008年11月08日

●健康のため、人類んため〜

すいどーばた恒例、一年に一回の健康診断。レントゲン、尿検査、問診、心電図、目、血液検査。人間ドッグまではいかないものの、自分の体の状況に関してかなりの情報を知る事となる。そして、こうした検査の精度を高めるために、前日夜からは食事もとらずに体をニュートラルにして備える。メタボへと邁進する日々の過食を戒めるには、なかなかいい機会ではある。
 イスラム教のラマダーンの断食には「罪を許すという効果」そして「肉体を健康にし、病気を防ぐという効果」があると説く。こうした教えに限らず、飽食を止め健康になることに勿論異存は無い。
 ただ・・、とても子供じみているのだが、どうも私は血を見ることに慣れていない。というより血を見ると自分から血が引いて行く。ましてや意味も無く自分の体内から血が引き抜かれ、流れ出して行くといった状況に耐えることにかなりの労力を要する。
 頭の中で「1+1は〜・・・」「今日の昼ご飯は〜・・?×△」と唱えながら、平気のヘイで人の腕に針を刺す看護婦の、あのマニアックとも思える微笑みと眼差しに侮蔑の言葉を心の中で叫ぶのである。
 「記念撮影しなくちゃ!」と義務も意味も無い行動。携帯片手に「カシャ!!」
 針の「ちくり」と重なって見事成功!もう私だって立派な大人。こんな痛みなんて。人類のため、平和のため、いや、私の健康の為ならばなんのその〜・・・・・・。
hari.jpg

2008年11月06日

●暗鳥乱舞

学校の仕事で、近隣の美術系高校などへ出向いて受験相談や実技指導を行う「校外講習会」というのがある。10月から11月にかけてはそのピークであちらこちらに「旅」をする。近郊の場合は日帰り出張となるのだが、私のように学校まで2時間以上となると時にはかなり強行な日程となる。場合によっては往復10時間、指導2時間ということさえある。帰宅時の足はもう硬直した棒に近いものがある。先日行った某美術系高校の講習時も、やはりかなりの疲労の中の帰宅路となってしまったのだが、講習を終えてタクシーで向かった駅である異常な光景を目にした。
 巨大化した駅の、それも眩しい程の照明の上空を恐ろしい数の鳥が舞っていたのだ。その塊はおよそ考えられない程の素早さで急旋回を繰り返す。太陽を天に飛ぶのではなく、地上の明かりを天にし、黒々とした集団が墜落するかのような狂気を秘めて舞っているのである。
天と地が逆転したかのような集団の舞いは、それはそれは不気味で、地上を行き交う人の群れと層を成しながら錯綜しているようでもあったが、誰一人として空を見上げる人はいなかった。その光景こそが二重に恐ろしくもあった。
しかし、よく鳥は空中衝突しないものである・・・・。すごい・・・。
   eki%20tori.jpg

2008年11月05日

●上野蜃気楼

世に言われし「芸術の秋」である。色とりどりの紅葉が眩しい程、寒い冬を前にした最後の徒花のようにきらびやかである。想像してみてほしい。作家にとっても、この時期に作品を発表するということは、実はあの暑い夏を少しは避けて制作できるということであって、本番への追い込みもそれなりにスムーズにいくのである。やはり秋は作家にも鑑賞者にとっても相思相愛の季節なのだ。
というわけで、私にも連日、展覧会の案内が届く。都心から離れ山里に暮らす私にとっては簡単においそれとは行けないのだが、意を決して東京周遊とばかりに一日を展示会巡りに費やすことがある。天気も良ければ気持ちは行楽気分、背中にリュックで焦らずゆっくり。巡る順番をメモ書きし、おまけにお昼のメニューまで想像してみるのである(とは言っても意外と立ち食いでかっこんで終わるのだが・・・)。
先日も、治りかけた腰の痛みを確かめるように出かけた。荻窪、新橋、銀座、京橋、自由が丘、そして上野、谷中と盛り沢山。友人作家、後輩、教え子と、いつもなら「次があるので・・」と詫びながら急ぐこともなく、会場でゆっくりと話せるのもこうした「一日巡り」の良さでもある。近頃は立派なカタログも多く、「巡り」が順を追うに連れ、バックは重さを増して行く。その重量は私を新たな制作へ導くエネルギーともなれば,逆に私がもう追いつく事のない時代を突きつけられているようでもあって、いわば過ぎたる者(作家)の郷愁をたぎらせるものともなる。
 懐かしい上野の森を久しぶりに歩きながら、こちらも変わってしまった風景に新鮮さと複雑さを交差させながら佇む。
 想いをかき立てるように突然噴水が勢いよく空に噴き出す。また消える。まるで蜃気楼にも似たケーキのような白い輝きが消滅を繰り返す。そんなリズムの光景を私は、ぼんやりぼんやり眺めては、「もう少し頑張ってみるかぁ」と呟くのでした。

funsui.jpg