« 2008年09月 | メイン | 2008年11月 »

2008年10月26日

●桂さん

先日、舟越桂さんが来た。言わずと知れたあの「舟越桂」氏である。つい先頃まで開催されていた東京都庭園美術館「船越桂 夏の邸宅」での内覧会でお会いして以来である。実は船越氏とは長い付き合いになる。お父さんである船越保武氏は学生時代、芸大ラグビー部の顧問で、桂さんも造形大学のラグビー部繋がりで親しくさせて頂いた。大学を出て以後、私がベルリンへ留学していた時も訪ねて来ていただきお会いしている。つまりは美術以前の体育会系的繋がりなのである。父上である保武氏は亡くなられたが、毎年12月には舟越先生に因んだ「船越杯」というOB戦があり、私は今でも年に一度のこの大会で「才能が無ければ体力だぁー」を実践しているのである。
 いかん、そんな話ではない。話しを戻そう・・・。
本来であれば予備校での講演会はしない桂さん(そうじゃないと止めどなく依頼が来ちゃいますからね・・)。そうとなれば、そう、この「濃い」関係を超最大限に使いこなし、若き彫刻家志望学生の為に登場していただいたという訳です。講演会というよりは、何かぶらっと来て話して行った、そんなコンセプトとアプローチで。

 柔らかな語り口、言葉を心の奥から探し出すように、実に丁寧に自作について語って頂いた。後半はこれも私の友人である造形大教授の三木俊治氏と作家対談。学生の質問も加わって本当に和やかで楽しい時間となった。
 静謐な作品が生み出される時間や現場が想像できて、学生も十二分に満足したようである。
 桂さん、どうもありがとうございました。

 funakoshi2.jpg

修了後、パチ!!(中)船越氏(右)三木氏

2008年10月25日

●天使の花

私の通勤は少々過酷だ。山梨との県境から片道2時間半近く電車通勤。新宿から山の手への乗り換えはマラソンでの最終コーナーを回った、そんな安堵感と同時に、満員電車の中央線で熟睡した頭を切り替える、そんな時間でもある。もうこの時間の山の手線は車内は空いていて、穏やかな目白駅での下車はいたって清々しいものがある。
 そんな中で先日、吊り革につかまる私の目の前の座席で必死に折り紙を折る女の子に出合った。お母さんは携帯片手に静かにメール打ち。女の子はたまにお母さんに話しかける。もちろん手と目は膝の上の折り紙へ集中している。私はいったい何ができるのかとその手を追った。電車の中、膝の上という不安定な中で、女の子の手はまるで魔法のように几帳面に折り紙を折って行く。
 こんな小さな手でなぜこれほどのことができるのか不思議で不思議で。さらに折り進められて行くその折り紙の奇麗な色の対比にも見とれ、「おじさん」はもう固まったように見続けた。
 と、その子が突然顔を上げた! 目と目があってしまった!
「まずい!!」とおじさんは分けも無く焦りたじろいだ。すると、その子が手を差し出した。
 「あげる!!」と・・・。

実は私には子供恐怖症的なところがある。どうもあの純粋さの前でうまく振る舞えないのである。 顔は引きつり、やっとの思いで受け取り、その折り紙を胸にあてがい勲章のようだとポーズ。女の子は僕の顔の引きつりを見て、うれしそうに引きつった。
 まるで天使のようなその手から渡された折り紙は、僕の心を満開にさせる「花」だった。

 hanamejiro.jpg

2008年10月15日

●ブラジル

「ジャパンブラジルクリエイティブアートセッション2008」という展覧会が行われた。
今年は1908年にブラジルへ向けた第1回日本人集団移住者を乗せた移民船「笠戸丸」が、2ヶ月におよぶ航海を経て、ブラジルのサントス港に入港してから今年で100年目にあたるという。この節目を祝おうと、今年はさまざまな行事や関連イベントが計画された。その中でこの展覧会は将に交流という意味で突出したものだった。主催者は両国のアーティスト。10年以上の長期に渡りアーティスト同士が深く交流し、そうした中から自らの視点で今のブラジルアートを紹介する、手作りの展覧会だ。規模、内容から言ってもよくここまでできたものだと感心する。通常の交流展と言われる展覧会の多くが、突発的で間接的情報で人選等が行われる事を考えれば、これは理想的な方法と言えるだろう。また昨今の若い美術家達が人が仕立てた俎上でのみで蠢くのとは対照的に、彼等は自分の足元を自ら作り上げる、そんな気概に満ちている。お互いが検証し合い、甘える事無く、価値観の相違を超えて成立させていくそのプロセスそのものが、作家にはひどく重要なものなのだと、ささやかながら彼らの人間味を帯びた雄叫び聞こえるようである。

burajiru.jpg

2008年10月11日

●濃く深くトルコ

今日はあったかいコーヒーがいい。そんな肌寒さ。一気に20°を切った。学生も無言に気合いが入っているだろう。寒さと気合いはイコールなのだ!!と学生の真剣さを想像しながら、腰を痛めて出講もできない自分を無理矢理に鼓舞してみる。
 コーヒーと言えばトルコのコーヒーを思い出す。トルコの飲み物と言えば一日10杯は飲むという「チャイ」という紅茶。とても爽やかで飲みやすい。一方の「トゥルク・カフヴェスィ」、つまり「トルココーヒー」は粉ごと煮出して上澄みだけを飲む、日本人にはかなり濃い飲み物。自ずと沈殿したコーヒー粉が底に溜まる。そのコーヒーを飲み終わったらカップごと逆さにして受け皿に置く。しばらく置いてカップの中を覗くと、カップの内壁を伝ってコーヒー粉が落ちて行く模様ができる。その模様でその人の性格判断や将来を占うのである。これが実によく当たるのである。「だって、あなた、僕の事知ってるでしょ?!」と、占い事には異常に疑い深い私なのだが、こうした占う人の一言一句の文学的な言い回しについ頷いてしまうのである。朗々と謳い上げるように真剣に人生を語ってくれる。たったひとつのコーヒーで、それも飲み終わったコーヒーがさらにコミュニケーション役割を果たす。小さなコーヒーカップは濃く味わい深いのである。
 痛さで動く事もままならない今、メタボへの道と知りつつ流し込むミルクの軌跡を追いながら、展覧会の展示を終えたあの寒い冬、イスタンブールのボスボラス海峡を眺めながら飲んだコーヒーを思い出すのです。
 「わたしのわたしのコーヒーさん、あしたのわたしをおしえてください・・・。」
今日の白いミルクは、表面をくるくる回りながら無音で溶けていくのでした。
    coffe166.JPG

2008年10月07日

●ロマンチックに

「あ〜・・今日も雲が流れる・・」と、まぁ、真昼の紺碧の空を見上げ、そしてまた夕焼けの紅空に心を「じわ〜ん」とさせる。他人の評価とは別に、どちらかと言うと感激屋であり涙もろくくデリケートである。
 「うちの子は気が弱くて・・」と嘆く母親。しかし裏返せばデリケートなのだろう。デリケートじゃない作家なんていないわけで、だから気が弱い事はある種の才能とも言える。そしてこうしたデリケートな感情はロマンティシズムへと繋がる。
 話しは違うがロマンチックな感情はどうも男の方が勝るようである。学生を見ていてもそう思う。男の方がデリケートでロマンチストなのである(あまり根拠も無く自己弁護にも近いが・・・)
 抜ける程の空、無限の広がりを見せる夕焼け。言葉では語れない程に神秘的で夢のようで。自分の内部に存在する特殊な感情とが合体し、想像性とが絡み合い、心が解放されていく。一時の猶予を持って訪れるであろう不安や憂鬱さも引き連れて、心は何か心地よく宙を彷徨うのである。
 そう今日も泣ける程の空を仰ぎながら想いを描くのである。ビバビバー青春!
panorama.jpg