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2008年05月31日

●微力と無力

うごめく都市。解体と再生。崩壊と生成。昨日の景色は明日に保証されない。人為、自然。
 地球温暖化は待った無し。およそ100年後には白神山地のブナ林は消滅するという。北極熊は氷河が解け餌を獲れず餓死。日々の報道は人間の飽くなき欲望が作り出すカタストロフィーに満ちた情報で溢れかえる。がんじがらめになった閉塞感。もがきながらも生きる。
 ミャンマーのサイクロン、中国四川大地震。想像を絶する死者、被害者。
一分間息を止める。1分間雨の中に立ち尽くす。たったそれほどの時間でさえ感じる苦しさと体感。微力と無力。微力でもできること。無力にならないこと。無関心でいないこと。諦めないこと。知恵を出す事。結論はいつもとてもシンプルだ。
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2008年05月30日

●点と線と癒し

「僕って雨男なんだよ(^^;;)」とか。実は私は「事故男?」。本当によく事故に出会う。いや、決して生々しいものでもなく、正しくは列車の遅延。特に私が利用する中央線はひどい。連続して出合うこともある。
 先だって新幹線に5時間程閉じ込められた。指定席で酒も入って熟睡とくればさして精神的影響は無いのだが、それでも「またか・・」とはなる。
 東京駅から目的の名古屋駅に着いたのは日付も替わった翌日の午前1時過ぎ。
大あくびしながら出たロータリーを見てさらにびっくり!そこにはタクシーを待つ人の長蛇の列!居並ぶ人が異なる感情を抱きながら線を成す。生きた線とはこんなものなんだろう(う〜ん・・なんだか三木さんの作品みたい・・)と妙に冷静に感動したりして。一方、駅構内に掲示された観光ポスター。そのコントラストの微妙さ。列車で疲れて癒しの園へ列車で向かう。
なんだか永遠と終わらない謎解きのようで。


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2008年05月13日

●絶壁太朗

山間部の道路、ここにも驚くべき光景がある。がけ崩れ防止の絶壁。合理的目的を持った構造物は時にその目的をはるかに超えた様相を呈する。ここまで来ればもう「お見事!」と言いたくもなる。「安全」「便利」は何よりもこうした工事では優先であり特権なのだろう。デザイン性や美的風景、あるいは借景といった日本的美意識などまるで意味を成さず、合理的にその目的を達成するのみにひたすら走る。この国は何かこうした合理的目的とそれに見合うお金があればきっと富士山だって平にしてみせるのだろうとさえ思ってしまう。
 くねくねと波打つ壁面。蜂の巣にも似たコンクリート風景から飛び出す生き物の空想。あるいはどうだろう?観光地の麗しき「滝」の説明のように、こうした構造物にも名前をつけてみるとか?
「右手に見えますのは〜、『絶壁太朗』君の堂々たるお姿ですぅ〜♪』
なんてそんな事を想像しながら、片手運転カメラ撮影と器用にこなして、安全と便利さをしっかり享受する私でした。

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2008年05月10日

●ゲーセン宝塔

めったに行く事は無いのだが何かのついでにフラッっとゲームセンターへ入ることがある。
ゲームをする訳ではない。
あの騒々しさになじむ訳でもない。
ただ異次元とも思われるこの空間世界に惹かれるものがあるのだ。
郷愁に満ちたメリーゴーランドのような、あるいは逆に一触即発のカタストロフィーのキナ臭ささえ漂わせる空間、そんな空間に惹かれるのだ。それは、昔、子供の頃に見た祭りの光景とも重なり交差し、全ての感情を逆撫でしながらも何か温かさに包まれる不思議な感情だ。
 仏教世界に「宝塔」というのがある。釈迦が説法をしていると大地から金、銀、瑠璃などの七宝で造られた巨大な塔が涌出し、空中にそびえるというものなのだが、いわば恐れ多くも視覚的にはそんな瞬間の様相なのだ。
ゲームセンターが宝塔?いやいや、あれ程の喧噪、まがい物のきらびやかさ、欲望に流されない自己。きっとそんな精神の中にこそ宝塔は出現するのだろう。
 ゲーセンで合掌する私でした。

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●春は山梨、勝沼で

春の花の咲き乱れる時期も落ちついた連休前、友人に誘われ勝沼の桃園農家へ「お手伝い」へ行って来た。以前から是非にと思いながらやっと願いが叶い嬉々として出かけた。脱サラ、且つ美大出で都会的ダンディズムの漂う農園主のご主人と朗らかな奥さん。そのお二人の人間性に引き込まれながらの「優雅」な「お手伝い」であった。
 近隣では稀の無農薬、自然農法ということもあって、ここまでかなりのご苦労はあったようではあるが、今はその農法と極上の味で有名ブランドとなっているのもうなずけた。

 さてさて、仕事は水路に滔々と雪解け水の流れる広々とした農園の中で、幸せ気分で陽光を浴びながら花芽を摘む作業。大きくなるであろう桃の姿を想像しながら余分な花芽を摘んでいくのであるが、およそ何千ともあるであろう花芽を間引いて、一つの木に最終的には200個程度の桃を成らすのだという。膨大な数から残される花芽から育つ大粒の桃を想像しながら、選ばれしものの奇跡や受粉に飛び交う蜂の姿、そして煌めく風の優しさに思いをめぐらした。そして4,000坪の中に広がる膨大な数の桃の木々に毎日付き合いながら生きる人の四季を思った。
 一本の桃の木に友人と二人で脚立を上がり下りしながら作業を進める。直に無言になって手先の花芽に集中していく。落ちる花芽、残る花芽。気がつくと眼下は花びらを残した蕾の絨毯である。空に実る命。大地に同化する命。どちらも生きていくのだと思った。
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