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2007年09月15日

●道具と美

粘土用の塑造べらなど手作りし磨きあげ、何種類も並べばながら制作する姿に制作へのこだわりと、そのものの造形美に感心したことがある。
私の住む周囲の農家の人の何十年と使いこなし手になじんだ鎌や鍬。体の一部にでもなったかのような見事なまでの美しさにほれぼれしたことがある。

徹底した機能の終着地点として浮かび上がった削ぎ落とされた造形美なのだと感じた。

一方で釣りよりも釣り道具、撮影よりもカメラ、といった具合に道具への愛着からその世界に浸る人がいる。個人的な嗜好の中で選び抜かれたものへの美学とでも言えるのだろうか。

近頃の学生を見ていて、こうした道具にこだわったり大事にする学生に出会う事は難しい。共通の備品ともなるとなおさらである。ものを大事にしない、というよりは体や気持ちになじんでいくプロセスそのものへの無関心なのか、あるいは結果を追い求める受験にあって、そうした時間にかかわっているだけの余裕がないのか・・・・。
体と皮膜を通じて堆積されていく記憶や時間。こうして時間をかけて紡ぎだされたものの存在はおよそデッサンにも通じるものだとは思うのだが。
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* 機能美というよりは何気なくぶら下げられたスコップのリズムが気になって。

2007年09月11日

●洪水と夢

関東を直撃した台風は多くの被害をもたらした。強烈な横殴りの風と雨。テレビも災害への注意を頻繁に促し、速報は河川の氾濫や交通の遮断などの情報に次々と切り替わっていく。
 しかしこうした雨台風の恐怖や不安とは別に、不謹慎ではあるが、台風の脅威は、なぜか自分の奥底に潜む好奇心を沸き起こさせる。今でもこうした機会をチャンスとばかり危険を冒して暴雨風の中へ飛び出し、川が濁流へと変容していく様や荒れ狂う木々の限界までの反りに胸躍らせ、そして自らを風の強さに曝して喜んでみたりもする。
 また平野育ちの私の記憶の中には、豪雨によって川が氾濫し、畑も水田も根こそぎ流された後に残った水溜まりに、沢山の魚が取り残されている光景、そして普段は無いところに新しい線を引くようにできた流れに長靴を入れてはしゃぐ自分の姿さえ浮かんでくる。
大人とは無縁の世界がそこにある。
 
台風一過。
夏の空を伴って風景は荒れ狂った痕跡だけを残して静まりかえる。五感をかき乱すようなエネルギーがいったい何処へ消えてしまったのかとさえ思う。
全くと言っていい程に変容してしまった風景に夕闇が迫り、まるで赤道直下のサバンナとも、あるいは恐竜の世紀にも戻ったような異質な光景に夢を見る。
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2007年09月08日

●名古屋コーチンと女子高生

毎年恒例となっている浜松の美術系高校へ校外講習の指導へ行ってきた。夏は終わりとはいえ、まだまだ厳しくうだるような暑さの中、吹き出る汗を拭いながらの指導。
 赴いたのは油科、デザイン・工芸、日本画、彫刻の四科の専任講師、そして一年生のデッサン指導の講師。二日間に渡って集中しての指導と一人一人の面談はかなりの体力の消耗であるが、学生にとっても「虎の穴」に匹敵する程の厳しさでもある。私の担当した科は彫刻を中心に工芸志望の学生と一年生の基礎デッサン。特に今年度は彫刻科用モチーフとして「鶏」をお願いしていた。無理を承知でのお願いであったが、現地で対面した鶏は、なんと、凶暴さを秘めた大きな名古屋コーチン。
 個人的には多種の鶏飼育10年の私ではあったが、現地高校の先生もその負傷の痕跡を自慢げに見せてくれたことも頭をよぎり、その攻撃にはさすがにひるんでしまった。
 しかし生きたモチーフのサプライズはこうした現実の持つリアリティーにある。
感覚の裏側まで土足で入り込むこうした生き物の凄さは矢張り圧巻である。そして制作への意欲はそうしたものがエネルギーの源となることを学生の作品が証明してくれた形となった。女子校化した美術系高校、蒸し風呂のようなうだるなかで粘土と鶏と自分と格闘する女子高生・・・・。

いやいや、よくよく考えれば特殊な光景ではある。
本当におつかれさまでした。
石膏取りして作品にするとか?!どうなったかな?

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