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2007年08月23日

●ツッパッテマスカ?

こうした学校の現場で働いていると、こちらは老いていくのに学生の年齢に変化は無く毎年その差は離れていくばかり。それにつれて、学生に対しての対応も若干おおらかになっているのだろうか、「昔の中瀬さんは怖かったです〜!」みたいなことを言われる。
まあ、誰しも人生の長さに乗じてそこそこにキャパは広がるもの、だ!と頷いてみるのだが、これも自信というほどでもない・・・。
そう言えば確かに自分にも二十歳の頃はあった訳で、そんな自分を思い起こしてみると何やら危険な思いに捕われる。当時の自分の根拠の無い自信やそれと相反するような怒濤の落ち込み。乱降下する感情に翻弄されながらも踏み出す一歩。そんな脆さと危険さがあった時代。そう考えるとそうした時代の学生を今目の前にしているのだと、あらためて学生の心理を思う。
「おい!!かかってこんかい!!」なんて弱気な僕はとても言えない・・・。
頑張れ諸君!ほ、ほら・・、が、がんばろ〜ね m( _ )m

どんな意味を込めたのか・・・中瀬、二十歳の写真より。
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●ゴミと彫刻

「ゴミ捨て禁止」、至る所に見つけることのメッセージ。よく思うのだが、捨てる輩は捨てることが悪い事も、ものによっては犯罪であることも承知でやってる確信犯に近いのだろう。その意味ではこうした張り紙が有効だとは思わないのだが・・・。ましてやそうした張り紙に捨てられる側の怒りや恫喝が加わると、捨てる側の悪意に満ちた対抗意識はさらに増幅されるようである。
 よく「汚い場所には彫刻を置け」なんて言われたものである。つまり環境を変化させる為の有効な手段だということなのだろう。
 この手の話で思い出すことがある。
以前、野外シンポジウムを企画した折りに、オーストリアの作家が作品設置に「ある場所」を選択した。それは湖畔の森の中の「ゴミ捨て場」だった。
作品は「晶」(クリスタル)という漢字をコンクリート素材で立体に起こし、その中にタイマー仕掛けの電気照明を入れたものだった。昼の間その作品はゴミにまみれて作品としての判断は難しい。しかし夕暮れと共に日が落ちるとその「晶」は鮮やかな光を放ち発光し闇の中に浮かび上がる。そのコントラストに拍手喝采したものである。
 とりわけその場所は、湖水で毎年行われる花火の眺望の場でもあった。
「花火、きれい!!」といいながら捨てられるゴミ。いみじくもそんなコントラストとも似ていて想いは一気に複雑になるのである。
 とりあえず、自分の作品が「ゴミ」と言われないようにとも思うのだが、未だに自信が無い。
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2007年08月07日

●画廊にて

先日、銀座に知り合いの個展へ。久しく会ってはいなかったけれど、その活躍振りは知っており楽しみに出かけた。会場ではこれまた何十年か振りの後輩(とは言え、みんないい歳なのだが・・・)にも偶然に出会い、嬉しい時間を過ごした。
作品は木彫の人体。アニメのキャラクターを立体化したようなしっかりと作り込んだフィギュア的作品。昨今注目されるサブカルチャーの流れの恩恵?とも言える作品の出来映えにうなりながらも、一方で自分の足場の脆さも味わうような妙な気分にもなった。
 と、帰り際の芳名帳のそばにふと懐かしい作家のカタログが見えた。
「舟越保武」氏の作品集。
  作品写真というよりは、カタログのタイトルが示すように、一冊は「石と随筆」、もう一冊は「舟越保武のアトリエ-静謐な美を求めて」とある。
 舟越先生(私が学生当時、芸大教授として指導にあたっていました)に関しては忘れ得ぬ多くの思い出があり、何かことある毎に私の中に再来する作家でもある。それは山深い渓谷で釣りをしている時に出会った岩の存在に感動した時、あるいは暑い最中に無心に制作する瞬間だったりと様々である。
 単にノスタルジーではなく、舟越先生の、作品が生まれる瞬間やそこまでのプロセスに触れる時、生き方そのもに合致した作品の成り立ちの有り様が見えるようで嬉しくなる。どこかで「こう、生きればいいのか・・・」とさえ思えるような心の静寂に包まれる、そんな感じなのだ。
二冊のカタログを買い、帰りの電車でカタログを拡げた。

作品の力とはきっとその人の「生きる力」に等しいのだろう。
そんな作品を作りたいものである。

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舟越保武 石と随想  求龍堂発行